久しぶりの温泉だった。それに東北新幹線が八戸まで伸びてから始めてだった。何年ぶりだろうか青森駅に降りたのは。かつては年間に何回かは来ていた。駅前ロータリーのJRバス停から十和田湖行きのバスに乗る。すでに秋の紅葉シーズンは過ぎていたので乗客は十人ほどであった。バスは青森市外を抜け八甲田山を目指す。私の今回の目的地は八甲田山の麓に在る酸ヶ湯温泉である。バスが山道を登って行くと、途中右手に遥か岩木山が見える。今日は雲が出ていて裾野しか見えない。その内徐々に左手前方に八甲田山が迫って来る。バスは広い高原に出て、一軒の売店の前で停まった。そこは酸ヶ湯温泉旅館の出店あった。バスの運転手が「十分間休息します」と言ってドアが開くと、何人かの乗客が小走りでトイレに向かう。売店の前には大きな釜が設置されていて、温かい麦茶が無料で提供されていた。私も木製の釜のフタを外し、湯気の立っている麦茶を柄杓で汲んで湯飲みに注いだ。煙草を一服しながら麦茶を飲み終わりバスに戻ると、他の乗客も三々五々戻ってきた。バスの運転手が乗客の人数を確認して出発すると、私の目的地はもうすぐそこだ。
バスは旅館の前のロータリーに入っていく。観光バスが一台停まっているが、おそらく日帰り入浴客が来ているのだろう。バスを降りると何人かの乗り合い客も一緒に降りた。残りの乗客は今晩はこの先の蔦温泉で泊まるのだろうか。
旅館の左側に、木造二階建ての校舎のような建物が二棟縦に並んで建っている。これが湯治客用の宿泊施設なんだと思う。玄関を入るとロビーはかなり広い。カウンターに行き「インターネットで予約したものですが」といってメールのプリントを渡すと、「お待ちしてました。」「係りのものがご案内します。」と、ピンクの制服を着た受付の女の子が答えたときには、若い男の子がいつの間にか私の傍に立っていた。その係りの男の子に付いて行き、案内された部屋はかなり年季が入っている。と言うか、この温泉旅館自体がかなり年季が入っていると言った方が良いのかもしれない。私は温泉旅館に宿泊するときは、その旅館の部屋とか料理とか言うものには拘らない。飽くまで温泉場の雰囲気であり、温泉の泉質である。今回酸ヶ湯温泉に来た目的は千人風呂である。裸の温泉客千人が温泉に浸かっている。いや、五百人でもいいんだが、さぞかし壮観ではないかと。
夕食を済ました後、早速目的の千人風呂に向かった。風呂場の入り口は銭湯の入り口に似ていた。左側が男性の脱衣場だった。脱衣場に入った私はその閑散とした雰囲気に一瞬惑った。四・五人の衣服が脱衣場の籠に入っているだけではないか。しかし、私はすぐに思い直した。今は五百人の女性が温泉に入っているんだ。風呂場はハーレム状態に違いない。
風呂場に入るガラス戸を開けなかに入る。風呂場はかなり暗く湯気も立ち込め前方がまったく見えない。私は眼を凝らし、恐る恐る足元を探りながら進んでいく。何とか眼は慣れて来たが、それでもよく見えない。どうも手前の湯船には二人ぐらいが入っているようだ。私の前をぼーとした影のようなものが横切る。私の歩いていく左側にも小さめの湯船がある。冷湯と書いてあったような気がする。その奥には打たせ湯があり、一つ影が四つん這いになって腰に湯を当てている。その打たせ湯の横と言うか前と言うか大きな湯船がある。殆どプールと形容していい。湯の色が乳白色をしているので泉質は硫黄泉だと思う。この大きな湯船には誰一人人影がない。私はこの湯船の突き当りまで行って湯に浸かる。ここからはこの風呂場の全体が見渡せるのだ。確かに大きい、千人風呂というのはあながち嘘ではないようだ。しかし、この風呂場が広い所為か、照明が暗い所為か、それとも湯気で良く見えない所為なのか、人の気配が感じられない。その時、突然私の内に怒りが湧いてきた。何故私を入れて野郎五人なのだ。なにがハーレムだ。こんな不条理があるか。
次の朝、旅館の前のロータリーから、再び十和田湖行きのJRバスに乗る。途中バスは蔦温泉で休憩を取り、奥入瀬渓流沿いを走りながら十和田湖に向かう。私は石ヶ戸というバス停で降り、奥入瀬渓流の遊歩道を十和田湖まで歩くことにした。晩秋の奥入瀬渓流は私にとってどうということもない。やはり、奥入瀬渓流は紅葉の盛りに来るべきなのかもしれない。遊歩道を歩いている人は少なく静まり返っていた。そういえばバスの運転手が、四日後にはこのバスも冬季運休になると言っていた。
渓流沿いの遊歩道をひたすら歩いた。ただ歩くために歩いた。私はこの旅行に出てくる前、鼻血が止まらなくなり脳溢血だと言われた。私はまだそんな年ではない。そしてこの一件は、それ以後の私の人生観に少なからず影響を与えた。これからは世間に遠慮なんかしない。嫌なものは嫌だと言って遣る。ブスはブスだと言って遣るんだ。二時間ほど歩いて十和田湖に着いた。
Yawara Yoshino