不思議世界

この原稿を書こうと思っていた時に、オウムの主犯連中の死刑が執行されたというニュースがあった。
 死刑制度の是非については私は以前に書いたことがあるので、それを繰り返すことはしたくない。ただ、あの連中が騒いでいた頃の世の中の気配を、これで私は少し思い出すことができる。
 あの頃は、今よりもずっと活気のある面白い世の中で、それなのにどうしてあんな幼稚で田舎くさい団体に吸い寄せられる連中がたくさんいるのか、それが私にはまったく理解できなかった。
 弱い者の横車というか、身のほど知らずの思い上がりというか、そんな鈍感さが私は生理的に許せないので、彼らの手下は当時の私の周りにもいたのだろうけれど、奴らが近づくのを私は許すことは無かった。
 そのかわり、そんな思い上がった弱者の生態というものを私はあの時代にかいま見たように思う。それを放置しておくと、あんなふうなとんでもない暴力が出現してしまうことになる。それはオウムに限ったことではなくて、それによく似た連中は他にもたくさんいたように思う。
 人間は弱いものだ、という当たり前のことにあぐらをかいて、ひとりでは何もできないので、みせかけの強さを掲げる奴のもとに群れ集う連中が私は嫌いである。彼らは、他人の中にずけずけと入りこんできて自分たちの支配下に置こうとする。それが、彼らの世の中に対する復讐であるような印象を私は受けた。あの無神経さ、あるいは、自分たちに賛同しない者はすべて悪だと断じる馬鹿さ加減は、おそらく連中の生まれつきのものなのだろう。それが私には腹立だしくてならなかった。
 そんなことをしなくとも、静かに楽しく生きてゆくことは難しくないし、素敵な友人や恋人を作ることもできる。そして、世の中に楽しいことや不思議なことは他にいくらでもある。ただ、それは孤独と正しくつきあうことができる人間にだけ許されることなのだろう。
 あんな集団に惹かれる連中は頭でっかちの世間知らずで、自分の身体を持てあましているんだ、とはよく言われることだけれど、彼らはそれまでいったい何をして生きてきたのだろう、と今でも私は不審に思う。美味しいものも知らず、音楽やアートに感動することも無く、ろくに本も読まず、身体を動かす歓びも、性の歓びも自然の美しさも知らないで生きてきたのだろう。だから、ちょっとヨガの修行をして幻覚をみたくらいであんな連中のもとに走ってしまう。
 そんなものとは比べものにならないような不思議がこの世界には当たり前のようにころがっているんだ、ということを当時の私は知っていた。そして、写真がそれを発見する手段のひとつである、ということも私は知っていたのである。平凡なこの日常が、実はとてつもなく豊かな不思議世界である。そんな不思議世界を生きている実感があるのなら、静かに誠実に生きて、寿命が尽きたら素直に死ねばよいだけのことだろう。当時の私はそれをうまく言葉にはできなかったけれど、写真がそれを私に教えてくれたような気がする。
 ところで、一度起こったら元に戻せない事象に囲まれているから我々は「時間が流れている」という幻想を持つのだ、という記事が科学雑誌に出ていた。なるほど、と私は思う。時間についても我々はもっと自由に考えてもよいのかもしれない。
 あの時代のことを私はあまり思い出したくないし、ましてや完全に縁が切れている過去の友人や知り合いと再会したいとも思わない。幸いにも私はあの時代を楽しく生きることができたので、それはもう「思い出」として完結させておきたい。今を生きるよすがとして、それを大切に自分の中に仕舞っておきたい。もしかしたら、これから私が撮る写真の中にその断片が現れてくるかもしれない。これもこの現実を生きる希望や歓びのひとつなのだろう。そんなふうにして年齢を重ねてゆきたい。
 自由な精神を大切にして生きてゆけば、人間はいつのまにか脱皮して成長することができる。今の私にはそれが分かる。それが唯一最大の「生きる理由」なのだろうか。


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