ささやかな転生のために

九月上旬になっても酷暑の夏が続いている。これでは心身ともになかなか休めることができない。それでも、空を見上げれば雲の表情が変わり、吹く風の暑さが少し和らいで、草むらからはようやく虫の声が聞こえるようになった。季節が移りつつあるのは確かである。

何があっても、私はこうして日々の写真を撮り続ける。ということは、そんな外界の様子も私の感慨も、私が撮る写真にずっと記録されてゆく、ということである。それは不完全な断片であるけれど、後から見直した時に意外なメッセージを伝えてくれることがある。そして、それは時として極上の表現を生み出す。これが写真の幸せなのだ、ということを私は思い知る。

酷暑の終わり、これを晩夏と言うのだろうか。そんな季節を迎えると、私のこれからのことが少し落ち着いて考えられるようになる。

サラリーマンの正社員をつらぬいた友人たちが第一線を離れ始める年齢になって、私にはそれはできなかったけれど、お疲れ様、という気持ちとともに、私は結局これでよかったのだ、という不思議な感慨が今、やって来ている。

幸せの形は本当にひとそれぞれなのだ、私自身を含めて。ということがようやく素直に認められるようになってきたと思う。サラリーマンの正社員をひょうひょうとつらぬいて幸せに生きている友人もいるし、はたから見ても、それであまり幸せとは思えない知人もいる。

私は楽しいうちに、あるいは深手を負う前にその世界から外れてしまったのだけれど、心身の健康を保ちながら歳を取ってゆく、言うまでもないことだけれど、これ以上の幸せは無いだろう。

毎朝、目が覚めてから寝床を出るまでの間、うとうとしながら私は二十代の頃の、ひたむきに働いて、学んで、そして生活していた激動の時代を思い返すことが多くなった。思い出そうとしなくとも、それは朝のあいさつのように勝手に私を訪れる。

それは、恥ずかしい思い出を含めて、私のかけがえの無い財産であるけれど、その頃の友人知人の多くと縁が切れてしまった今、それはまるで前世の思い出のように感じられる。それは、私の無意識の底に沈んでしまって私の血肉になっているのだから、あまり思い出したくない、という気持ちが強い。幸いなことに、当時の私を知っているひとは、今私が住んでいる盛岡には誰もいない。

あの時代、幸いなことに私は誰のことも深く傷つけることは無かったのだから、あの頃のことはもう忘れて生まれ変わりたい。縁の切れてしまった当時の友人たちと再会したいとも思わない。それぞれ幸せに生きていてくれればそれでいい。

自分を空っぽにしてリセットしなければ新しい出会いは無い。それは困難な作業かもしれないけれど、言ってみれば便秘が解消したような気持ちよさが伴うはずだし、希望はおそらくそこから始まる。繰り返しになるけれど、今までの経験は無意識の底で私の血肉になっているのだから、それで充分である。過剰な気力と体力がそぎ落とされた、年齢を重ねた精神と肉体が今の私にはある。あの頃に戻りたいなんてゆめゆめ思わない。

ところで、私が二十代の頃、それは音楽の世界ではLPレコードがCDに移行する時期だったけれど、そのあおりで輸入物のLPレコードが安く手に入った。また、最後の復刻、と銘打って、往年の名盤のLPでの復刻が相次いでいた。

私はガイドブックを参考にしながら、お小遣いの許す範囲でそんなレコードを集めていた。その中には、当時の私には理解できない音楽もたくさんあった。

それでも、せっかく買ったレコードなのだから、とか、ジャケットが素晴らしいから、という理由で私はそんなレコードの多くを手放さずに持ち続けてきた。そんなレコードが、こうして歳を取った今、私の大切な宝物になっている。

たとえば、ビリー・ホリデイの歌を当時の私は理解することができなかった。それが歳を取った今、しみじみと身にしみる。そして、このレコードは今や希少盤である。手放さなくて本当によかったと思う。そんなレコードは他にもたくさんある。これは、まるで二十代の私からの贈り物であるように思えるのだ。

あの頃、一生懸命に撮っていた写真もそうだ。二十代終りから三十代初めにかけて撮っていた盛岡の町のモノクロプリント、かつては稚拙に思えたこともあったけれど、これはこれで何かしら価値があるのかもしれない。そんなふうに思えるようになってきたのだ。これが歳を取ることの面白さかもしれない。

そして、意外なことに、そんなふうに悪戦苦闘して私が生きてきたこと自体が、今の若いひとたちに何かの示唆になっているのかもしれない。そのことに私は最近になって気がついた。たとえ反面教師であってもいい。彼ら彼女らはそのよい面を評価してくれる。このことがとても嬉しい。こんなふうに次の世代に何かを伝えることが出来れば、それが私の生きる力になる。

酷暑の晩夏がもう少しで終われば、ようやく秋がやって来る。それが待ち遠しい。

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