デジタルへ愛をこめて、よたび

十月なかばに急に右脚が痛み出した。以前もお世話になった医院を訪れると、「何らかの原因で神経伝達物質の分泌が滞っているのかもしれませんね。それが原因で炎症なり痛みが出ているのでしょう」とのことで、以前と同じ薬を処方してもらった。それでも、前回よりも症状はずいぶん軽いので薬の量はだいぶ少ないし私自身、以前よりも難儀ではない。
 ただ、それと前後して私は風邪をひいてしまって、右脚の痛みとあいまって数日の間、床に伏してしまった。あまり言いたくないけれど、ここしばらく精神的にきついことが多かったので、その反動かと思う。その間にも、写真の展示をしたりして、もちろん楽しいこともあったのだけれど、たとえささやかではあっても、写真展というものは後に疲れを残すものではあるらしい。
 横になっている間、私はずっと本を読んでいた。ただ、新しい本を読む気にならなくて、本棚から以前読んだ本を出してそれを再読再々読していた。要するに、気力も低下してしまって新しいものに踏み出すことができなくなっているわけである。
 やや回復して、一応は普通に生活ができるようになっても、その傾向はあまり変わらない。それに、今の私は生理的にデジタルを受け付けないのである。音楽はLPレコードばかり聴いているし、こうして何とか回復してパソコンのキーボードを打ってはいるけれど、実はパソコンには触りたくないしインターネットも見たくない、ケータイにも触りたくないしテレビも見たくない。そんなデジタル拒否症状に陥っているのだ。
 日曜日には、右脚に痛みが残ってはいるけれど、いつもどおり私は町歩きに出掛ける。その折りにも、愛用のリコーGRデジタルを持つのが私は嫌になっている。デジタルカメラと言っても、これはもう十年以上前に出た古いモデルである。それでも今はこれをあまり使いたくない。代わりに手にするのは昨年の暮れに手に入れた、オリンパスXA3というカプセルタイプのフィルムカメラである。それにフジカラー100を入れていつもの町を撮り歩く。それがとても心地よい。出来上がった写真もデジタルで撮るよりもずいぶんラフである。それを見て私は安心する。
 もしかしたら、デジタルはラフでレイジー、つまりいいかげんで怠惰、あるいはスローであることを許容できないのだろうか。デジタルはマジメで優秀すぎて、私は時々ついてゆけなくなる。それは私だけの思いではないのではないかという気がする。
 そんな思いを抱く人間がいる限り、どの分野であってもアナログはしぶとく生きのびるのだろうと私は思う。 横になっていた間、私は「日本カメラ」と「アサヒカメラ」の十一月号を隅から隅まで読んでいたのだけれど、その中に山田久美夫氏というデジタル写真のエキスパートである写真家の意外な意見があった。「銀塩は自然界の賜。デジタルはそれを真似て人が作ったもの。」なるほど、デジタルに精通した方に、こんなふうに考える方がおられると私は本当に安心する。
 そうであれば、最近になってプロ棋士がコンピュータに負けるようになったのだって、これはデジタルの森の深さが示されたということではないのだろう。そうではなくて、コンピュータのマジメさと優秀さが、将棋という底知れないアナログの深みをプロ棋士に改めて教えた、ということではないのだろうか。
 デジタル技術は、氷山の一角にとり着いたアメーバのように、巨大なアナログの迷宮をきまじめに走査してゆく。そして、この世界の謎の一端を我々にさし出してくれる。
 そう考えてみると、私は疲れた時には、巨大でレイジーなアナログの海に浮かんで安心して休んでいられると思う。
・・・体調が完全に持ち直したら私はまたリコーGRデジタルを持って町を歩きたい。病気とか身体の不調というのはすべて身体や無意識からのメッセージであって、それを乗り越えると自分自身が新しくなる。それは私もよく知っている。
 余談ながら、私はフィルムカメラは使えるものだけでいつのまにか十台くらい持っているけれど、デジタルカメラはリコーGRデジタル一台しか持っていない。この一台で、手許にある十台のフィルムカメラと釣り合うくらいの力があると私は思っている。だから、今のところ、最新のデジタルカメラが欲しいという気持ちは私には無い。だから、前言をひるがえすようだけれど、フィルムカメラのスナップも気楽に続けたい。いずれにせよ体調が戻るのが待ち遠しい。


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