母の死

昨年末、介護施設に入所していた母が急逝した。前日まで元気にしていたとのことだけれど、早朝の見回りの時にはすでに呼吸が止まっていて、施設の先生が駆けつけた時は手遅れだった。その直後、父と私が呼び出しを受けて対面した時、母は本当に安らかな表情で眠りに就いていた。先生の、「苦しんだ様子も無い、大往生ですよ」という言葉はお世辞ではなかったと私は思う。
 私には、母が最後まで家族の顔を忘れずにいてくれたことが最大の救いだった。きっと母も努力していたのだと思う。母は施設でも「ありがとう」の言葉を決して忘れなかったので、介護士さんたちにとても可愛がっていただいた。幸せだったのだと思う。私にとっては、死の数日前に面会に行ったのが最後になってしまった。その折りに撮った写真はもちろん大切に保存してある。
 すぐに駆けつけてくれた葬儀屋さんの手配のおかげで通夜、火葬、葬儀という一連のセレモニーは年内に終えることができた。どたばたした時間が過ぎて、私はようやくこうして文章を書く時間を取り戻している。その間に私の体重は二キロ落ちて、ほほがこけているのが鏡を見ると分かる。自分で言うのも何だけれど、目が悲しい。私の周りのひとはもちろんそれに気づいているのだろう。努めて私は笑顔を見せるようにしているけれど、今は内側からにじみ出てくる悲しみを大切にする時なのだろう。そう思って生きてゆくしかない。
 母の死亡診断書には死の時刻が記入されたのだけれど、養老孟司さんが書いておられたように、生と死の境い目はあいまいなものだ、ということを私はここで強く実感することになった。母の遺体には、通夜の会場に移されてもまだ温もりが残っていた。温もりが残っているうちは、母の気配のようなものが遺体の上の天井のあたりにただよっているのが私には感じられる。その間は、たとえ応答が無くとも母に呼びかけることは可能なような気がしたので、どうしても伝えておきたいことを私は母の耳元で大きな声で話しかけた。その時まで母は生きていたように思う。遺体が冷え切ってしまうとともに母の気配もどこかに消えてしまって、この時、母は本当に死んでしまったのだと私は思った。母はどこに行ってしまったのか。それは「無」としか言いようが無いのだけれど、その「無」を的確に語る言葉を私は知らないのだ。
 余談ながら、その間、私は村上春樹の長編小説に出てくる葬儀や死の場面をずっと思い浮かべていた。私がこれまでに体験した葬儀の記憶よりも、その方がずっとリアルだったのである。
 祭壇に飾る母の遺影は、以前、何かのお祝いの時に私の行きつけの写真店のスタジオで、私の友人のカメラマンに撮ってもらった写真を使った。十枚くらいのカットの中からそれを選んだのは私である。葬儀の場でまでも私は母に叱られたくないので、私はいちばん優しくて可愛らしい写真を選んだ。この写真の母と私はこれからおつきあいしてゆくことになる。
 通夜の会場で、私は母の幼なじみだという年配の女性に声をかけられた。「母は私にとてもよくしてくれたけれど、それでもずいぶん厳しい母親だったと思うんですねえ」と言う私に、その女性は「それはよく分かります。でもね、あなたは自慢の息子だったんですよ。手料理を食べさせてくれたり、大学にもどって勉強したり、写真展を開いたりするのをとっても嬉しそうに話していたんですよ」と答えてくれた。
 手料理はともかくとして、母は、私が大学にもどることにも写真を続けることにも、私の前では決してよい顔はしていなかった。
それを言い始めるなら、母は、もちろんそれにならって父もそうだったけれど、私が思春期を迎えた後、私が何かをやりたいと言い始めるたびに私と衝突するのが常だった。だから、絵に描いたような仲よしの幸せ家族、まあそんなものが本当に存在するのかどうか私には判らないけれど、それが私には信じられないのである。父の罵声を浴びて、母の冷たい叱責を聞いて、くやしさで眠れない夜を経て、それでもやりたい、と言う私を、なかば見放すようにして、それでも母は、最後の最後には、「誰に頼まれたのでもない、自分で決めたことなのだからしっかりやりなさい」とはなむけの言葉をかけてくれた。その意味では、母の方が父よりもずっと強かったと私は思う。
 誠心誠意説明すればひとは必ず分かってくれるのだから隠し事はするな。叱られることや傷つくことを恐れて卑怯な真似をするな。罪を憎んでひとを憎まず。それが母の最大の教えだったと私は思う。そのことが私をどれだけ救ってくれたか分からない。
 それにしても、母の勘の鋭さは恐るべきもので、たとえ遠くに離れていても、母は私が何をしているのか常にうすうす勘づいていた節がある。それは介護施設に入所した後でも変わることは無かった。
 母の棺には私の写真集「小笠原諸島 母島への旅」を入れた。パリや盛岡で撮った写真のポストカードも入れた。これは私が最初から決めていたことだった。火葬場で「いってらっしゃい」と母の棺を見送って、そして、待合室で親戚といろいろお話をして、その後にお骨を拾った。父に代わって私が骨箱を抱いてマイクロバスに乗った。そして葬儀の会場にもどった。
 骨箱はほんのりと温かかった。私はマイクロバスの座席でその温もりをお腹に感じながら外の景色を眺めていた。その、母が与えてくれた最後の温もりを私は一生忘れることはないだろう。私が二十代の頃、たとえば電車の中で、どこかの若いお母さんが赤ん坊にほおずりしているのを目にしたりすると、私は涙がこぼれてきて仕方が無かったことがあったけれど、あれはどうしてだったのだろう。
 その、母の死と対面してから葬儀が終わるまでを、荒木経惟さんの「冬の旅」には遠く及ばないにせよ、私はできるだけ写真に収めるように努めた。喪服の上に愛用のリコーGRデジタルを下げてシャッターを押し続けた。母の死に顔のアップを何枚も撮ったし、死に装束も、棺に納められた姿も、火葬が終わった姿も、白い頭蓋骨のアップも撮った。それを整理するのはこれからである。
 それ以前、母が入院した後、容体が安定したのを見計らって私は母の写真を撮り始めた。それは、私が面会に訪れるたびに撮ったスナップ写真である。その中からよいと思った写真をL版に焼いてもらって、写真店で売っている廉価なファイルに順に収めた。その枚数はもう百枚を超えている。その写真が、母の死を境にして大切なことを語り始めている。写真がいのちの気配を伝えている。
 このふたつの写真を公表するつもりは私には無いけれど、この一連の撮影は私をさらに鍛えてくれた。それを本当に実感するのはこれからだと思う。
 私は、岩手県立美術館で開かれている篠山紀信の展覧会で見た、津波の被災地で撮られた若い女性の巨大なポートレートを思い出している。それは、理不尽な悲しみを抱えたひとの、あまりにも切ないまなざしである。その前で私は涙を抑えることができなかった。つながりの無い悲しみが写真を介して共振するのである。展覧会の図録に書かれていた篠山紀信の言葉もすさまじい。
 篠山紀信の天才にはもちろん遠く及ばないけれど、写真という巨大な海に無邪気にこぎ出してしまった自分にようやく気がついて私は慄然とする。 でも、その怖さは、そしてこの悲しみは、揺るぎない希望でもあるはずだ。「でも、それにもかかわらず撮る」という森山大道さんの言葉が私の支えである。それは「それにもかかわらず、私は生きる」ということなのだから。
 そんな人生の果てに、母のような安らかな死に顔が待っていることを私は知った。少しずつ悲しみを深めながら、私は春を待っている。


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