キャパ、生きる喜びのために

福島県のいわき市立美術館でロバート・キ ャパ展を観た。キャパのデビュー作と言える 一九三二年のトロツキーの写真から、一九五 四年、キャパが地雷を踏んで他界する直前に 仏領インドシナ(ベトナム)で撮った生涯最 後の写真までの約二五〇点を時代順に並べた 展覧会だ。その間には彼が母や弟に宛てた手 紙や雑誌、アンドレ・ケルテス(だったと思 う)の弔辞が飾られていた。
 ずいぶん魅力的なひとだったんだなあ、と 今さらながら私は思う。「フォトジャーナリ スト」という肩書きが本当に場違いに感じら れる。彼は「写真家」なのだ。
 言葉による形容の全てが当てはまらず、ひ たすら写真を撮り続けるひと、喜怒哀楽と知 性を兼ね備えて人生を生き抜くひと、そんな ひとを私は写真家と呼びたいし、できること なら私もそんな風に生きてみたい。
 戦争の悲惨さを、ひとが生きることのかな しみを骨身に染みて知っていたはずなのに、 彼の写真からそれがストレートに伝わってく ることはない。むしろ、人間のぬくもり、希 望、生きることへの讃歌がそこにある。キャ パの写真はその上で歴史の悲劇を伝えてくる のだ。他の戦争写真家によくある、悲惨の告 発、あるいはお涙頂戴を誘おうとする写真と は決定的に異なっている。
 しかし、私にしたところでこうして彼のプ リントをたくさん観るまではそれに気づくこ とができなかった。この展覧会に出品された プリントはキャパの手になるものではないの だが、それにしても生のプリントは写真家の 鼓動を強烈に伝えてくるのだな、と思わずに はいられない。写真は結局プリントに尽きる のだろうけれども、それを極端に尊重するの もどうかな、という実にきわどい写真の本質 もキャパは教えてくれたように思う。
 話をもとに戻すと、以前何かの雑誌で荒木 経惟さんがキャパについて語っていたのを読 んで、私はずいぶん場違いな印象を受けたも のだけれど、今にしてその謎が解けたような 気がする。ふたりとも真摯でおしゃれで矛盾 をはらんだ素晴らしい写真家なのだから。
 だから、キャパの代表作として取り上げら れる、あの銃弾を受けて倒れる兵士の写真が 実はヤラセなのではないか、という近年出さ れた仮説は私には真実なように思われる。あ れはキャパの茶目っ気あふれるいたずらなの だろうと私は思う。そして、そんないたずら もまた写真の本質である。その証拠に、キャ パはあの写真の他には凄惨な死の瞬間を撮っ てはいない。
 ケルテスの弔辞にあるように、キャパは真 摯に、優雅に人生を生き切った。そしてそれ が歴史を記録し、その息吹を後世に伝えるこ とになった。同時に人間の、あるいはキャパ 個人の例えようのない魅力をも永遠に伝える ことになった。そして不思議なことに、彼の 死は過剰に涙で湿った印象を与えない。人間 に、そして写真家にそんな素晴らしい生き方 ができるということをキャパは教えてくれる 。「二〇世紀を代表する写真家」という賛辞 は確かに彼にふさわしい。

キャパは死の直前、日本に立ち寄ってひと びとを撮影している。当時の日本人でさえ、 彼の手にかかるとかくも魅力的に写ってしま う。不思議です。
 どこに行っても彼は異邦人だったのかもし れない。もしかしたら、異邦人であることを 彼は心からたのしむことができたのかもしれ ない。
 彼はハンガリーの生まれでした。



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