「千と千尋の神隠し」の旅

「千と千尋の神隠し」がテレビで放映され た。私はこの映画を昨年の正月に一度見たの で一年ぶりだった。テレビをつけてチラチラ ひろい見するつもりが、いつの間にか画面に 釘づけになって最後まで見てしまった。今の ところ、この映画のビデオを買ってまで見返 すつもりは無いけれど、よく分からないまま に何度も何度も見たくなる力がこの映画には あるみたいだ。
 私はこの映画を見て涙したわけではないし 、自分の体験と重ねあわせて納得するという ことも特になかった。それでも、今さら私ご ときが言うことではないけれど、この映画は 忘れられた深い想い出にどこかでつながって いるような気がする。
 それは不思議な懐かしさなのだけれど、も ちろんそれだけではないと思う。この映画は 想い出を喚起するだけではなくて、見るひと それぞれに現在と未来への豊かなメッセージ を発信しているのだと思う。
 私の個人的な感想を記してみると、この映 画は単に私の感覚や記憶にはたらきかけただ けではなくて、以後の私の生活を予告してい たようにさえ思えてしまう。この映画のどん な場面とも私は同じ体験をしていない。にも かかわらず、この映画は私の未来を予告して いる、そんな確信を持たされてしまう。
 いったいこれはどういうことなのだろうか 。こんな不可解な確信は居心地が悪いのが普 通なのに、今回に限ってはそれが心地良い。 映画の細部が全て現実に向かって開かれてい る、と言えば良いのだろうか。
 映画は写真と違って、多くのひとの共同作 業によって作られ、その全てが意識によって 統御されているはずである。それがこんなに 豊かに個人の夢と現実にはたらきかけるとい うことが私には信じられない。そんな奇跡を 可能にしているのは何なのだろうか。
 この映画に身を任せている間、我々は気づ かないうちに何か別のものを見ているのかも しれない。たとえば、深い泉を見る時、水面 を見つめているうちにその奥の暗がりに目を 凝らしてしまうのと似ているだろうか。そし て、その暗がりは曲がりくねった末に我々の 心の闇にまで通じているはずだ。そして、こ の映画の力は、ストーリーと全く無関係な領 域にまで優しく広がっている。それは大規模 な、国民的な関心を呼んだうえに、今や世界 に向かって波及しつつある。
 この映画では、何か特別の言語が使われて いるのではないだろうか。ある言葉が特定の 意味だけを指す通常の言語ではなくて、言葉 がそれ自身の意思を持って動きだし、映画を 見るひとの意思と感応してそれぞれ新たな意 味と力を生み出してゆく。そんな生きた言語 がこの映画の中ではたらいているように思う 。そして、その力はあまりにも優しい。我々 は安心してそこに身を任せていていい。流行 りの言葉で言えば「癒し」だ。これだけの強 さを持って言語を解き放てば、それはこんな に優しく果てしないものだったのか。
 その言語の広がりは、筒井康隆の短編「ヨ ッパ谷への降下」にどこか似ていると思う。 水のイメージ、優しく包まれる場面、天国を 思わせる描写。この短編から少し引用してみ る。「糸を紡ぐようにもうひとつの論理によ る筋道立った会話が次つぎと繰り出されてい く。これは非常に重要な話なのだと理解でき 納得できるのだ。」
 そう言えば筒井康隆は「ヨッパ谷への降下 」のずっと前に、ハナモゲラ語の研究をして いた。その頃、彼はハナモゲラ文学を次のよ うに定義している。「何語に翻訳することも 不可能でありながら細部まで理解でき、さら には裏読み、深読みのきく虚構」。これがど こかで「ヨッパ谷への降下」につながってい るのは確かだろうし、その水脈はおそらく「 千と千尋の神隠し」にまで流れている。
 つまり、「千と千尋の神隠し」では目に見 える物語をなす映像や会話や音楽の奥に、い くつもの別の物語が織りなされていて、それ らが同時に進行しているのだと思う。その隠 れた物語は時折片鱗となって画面に現れる。 後からそれを取り出して考えれば全く意味を なさない断片なのに、ストーリーと同じくら い奇妙に印象深くて忘れられない。それは意 思を持って自由に振る舞う別世界の言語の化 身だからなのだと思う。
 これ以上私は「千と千尋の神隠し」につい て語りたくない。この思考の続きは夢の中で 果てしなく豊かに行われるだろうし、その断 片は私の撮る写真にも現れてくるだろうと思 う。そしてそれは私の人生をも動かしてゆく だろう。真に自由で優しく豊かな言語が私の 中で動き出し、それが外へ現れること。それ が他のひとにも穏やかな波のように伝わって いくこと。それを私は望んでいる。



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