もうひとつのひきこもり

押入れの整理をしていると古いカメラ雑誌 が出てくることがある。私はその良い読者で はないからそれほどたくさんしまってあるわ けではないけれど、それでも昔のカメラ雑誌 というのは何となく面白いのでしばらく読み ふけってみたりする。
 巨匠のひと昔前の写真を見るのも面白いし 、デジタル登場前夜であればメカニズム関連 の記事もどこか懐かしいおもむきがある。ま た、アマチュアの写真コンテストのページは 、おおむね昔になるほど作品がおおらかで、 写真を楽しんでいる、というアマチュアの自 信が伝わってくるような気がする。今では考 えられないことだけど、ノルマに縛られたプ ロがそんなアマチュアの制作を本気でうらや ましがっていた、という話もうなずける。二 十年近く前、「カメラ毎日」が廃刊になった 時、その最終号に「カメラ雑誌という文化現 象の終わり」という文章が載っていたと思う けれど、今にしてみれば、それを言うのは少 し早すぎたのではなかったかと私は思う。
 カメラ雑誌はその名のとおりカメラの雑誌 であって写真の雑誌ではない、という考え方 もあるが、「アサヒカメラ」や「日本カメラ 」はカメラの記事と写真の記事を両立させな ければいけないわけで、その編集者はきっと 大変なのだろうと私は想像する。それを「清 潔なごった煮」と言ったら怒られそうだけれ ど、そんなふうに様々な分野が複雑に入り組 んで成立している雑誌は他の世界には見当た らないのではないか、という気がするし、そ れが何十年もずっと続いている、ということ はもっと不思議なことなのかもしれない。
 かつて、評論家の多木浩二さんは、カメラ 雑誌を「プロカメラマン予備軍のための機関 誌」と呼んでいたと私は記憶しているけれど 、町のカメラ店では必ず「アサヒカメラ」を 購読していることからすると、それを支えて いるのはプロと関係ない「写真愛好家」のひ とたちなのだろう。もしかしたら、カメラ雑 誌の編集者は、写真とカメラの記事の両立よ りも、プロ予備軍と一般の写真愛好家の両立 に苦労しているのかもしれない。
 私は予備軍にも愛好家にもあまり関心がな いけれど、このお二方は全く別の関心を持っ た異人種だということはよく分かる。そんな ひとたちが織りなすこの業界は、ずいぶんと 奇妙な世界なのだろうと想像する。私は時代 遅れになってしまったカメラで撮り続ける写 真家でしかないので、こうして勝手なことを 書けるわけである。
 それにしても、あまり他人の悪口を言いた くはないけれど、今時の「写真愛好家」はあ れで本当に楽しいのだろうか。二十年以上前 、私はほんの短い間、カメラ雑誌のコンテス トに顔を出していたことがあったけれど、あ の頃の「愛好家」は本当に楽しそうに見えた 。たとえば、ふだんは魚屋や八百屋をやりな がら、時々近所の女の子の部屋を訪れて裸を 撮ってついでに彼女と戯れて、それで見事コ ンテストの一等賞を獲ったりするおじさんた ちがかつては存在した。「愛好家」というよ りも彼らは立派な「アマチュア写真家」であ る。その頃、写真というのはちょっとエッチ でおちゃめで時にはしみじみと重い大人の楽 しみだったと思うけれど、そんな素敵な大人 のアマチュア写真家たちは今どうしているの だろうか。
 かわりに、今の写真愛好家はひたすらカメ ラを買いそろえることに精を出しているよう に思える。それを見込んでか、ニコンは銀塩 のF6を出したけれど、それが結構売れてい るらしい。あの凄まじい機能や耐久性を必要 とするのはほんのひと握りのプロだけであっ て、大方の愛好家は単にあれを所有するため にだけ大枚をはたいているようである。不況 とはいえ、要するにみんなお金の使い方を知 らないだけなんだな、と私はひがんでいる。 その証拠に、F6が発売されてすぐに、カメ ラ店の下取りコーナーには傷ひとつ無い先代 F5が並ぶようになった。単に所有するため だけに買い続けるひとたちがニコンの最高級 機を支えているように私には思える。
 資本主義の頽廃もついにここまで来たかな 、という感じである。それを承知で新製品を 出し続けるカメラ会社も決して楽しくはない だろう。コニカとミノルタは合併してしまっ たし、オリンパスのカメラ部門は今期百八十 億円の赤字だそうである。新製品を出せば出 すほどカメラ会社は自らの首を締めているよ うだが、もうそこから抜けだすことができな くなっているのだろう。オリンパスは私の愛 機であるOMをやめてしまってから、もう別 の会社になってしまったと思って私は愛想が 尽きているけれど、しかし新製品が出るごと に、一生おつきあいできるだけのカメラが消 えていくのである。代わりに出る新製品は、 むやみに高性能で高価であるし、もはや愛機 と呼ぶには相応しくないただの家電製品とし か私には思えない。そんなものに大枚をはた き続ける「写真愛好家」が私には全く理解で きない。
 誰かに怒られそうな気もするけれど、いつ の間にこんなに「カメラおたく」が増えてし まったのだろう。そもそも、カメラは写真を 撮るための道具ではないか。その美しさも使 い心地の良さも、使いこんでこそ分かるもの ではないか。使えるカメラは断じて骨董品で はないし、さわって楽しむマスコットでもな い。そして、愛用に値しないカメラなど単に 通り過ぎてしまえば良い。
 なんだか言いまわしが女性論に似てきたけ れど、女性とおつきあいする度胸の無いやつ が代わりにカメラをめでるのだろうか。たし かに、どんなに良いカメラであっても一度気 持ちが離れるともうおしまいであって、この へんのところは女性とのおつきあいと全く同 じである。
 話をもどして悪口を続ければ、F6のカタ ログには、モーターの作動音や手触りなど、 細かい所まで気を配って作ってある、という ようなことが書いてあったけれど、それがど うしたと私は言いたくなる。気を配りながら も無骨でいるのが最上の道具だと思う。バイ ブレーターじゃあるまいし、もっとも、大方 の愛好家はバイブレーターのつもりで新製品 を買い続けるのだろうか。モーターの作動音 とか手触りとか、悪い冗談もいい加減にして もらいたい。
 カメラというのは、持ち主の心掛け次第で バイブレーターに変わってしまう妖怪の一種 なのだろうか。写真を撮る道具として使い続 ける気概と力量を持ち続けない限り、写真家 は簡単に妖怪に負けて「おたく」になってし まう。最近のカメラ雑誌にはそんな「おたく 」が幅をきかせている。もちろん、新製品お たくの他に中古カメラおたくも多いから要注 意である。
 確固たる意思を持って写真を撮り続けるよ りも、メカニズムに溺れてしまうほうがずっ と楽なのだろう。「アサヒカメラ」の読者欄 に「いじりがいのあるカメラ」という奇怪な 表現を見つけたことがあるけれど、愛好家で なく写真家にとってさえメカニズムに関する 「必要充分」を保ち続けるのは意外に難しい ことのようで、その誘惑に負けてしまうと写 真はつまらない趣味でしかなくなる。
趣味と言えば、私自身、「良い趣味をお持 ちですね」とか「趣味と仕事の両立は」とか 言われることが多くて、あれは本当に疲れる 愚問だと思う。もちろん、真剣に楽しんでい ることを表す言葉が他にないので仕方なくこ の言葉を使っているひともいるのは私も承知 している。それでも、趣味というのは私が一 番嫌いな言葉であって、「私は無趣味です」 とか「生きること全てが趣味です」とか答え たくなるけれど、それも面倒なので適当にご まかして切りぬけてしまう。趣味なんて言葉 はこの世から消えてしまえば良いと私は思う 。そんな言葉を使うくらいなら「道楽」と呼 んでほしい。
 趣味なんてものはオナニーにもはるかに劣 るただの手慰みであって、いい年をしてそん なものにふける連中が私は哀れに思えてなら ない。あれは生きることに何の喜びも見い出 せずに、お金と暇を持て余している人間のた めの時間潰しであって、どんなに安楽な人生 が保証されるとしても私はそうはなりたくな い。フランス語で「趣味」に当たる言葉は「 パスタン」だけど、これを直訳すると「時間 潰し」になることはあまり知られていない。 生きることに何らかの喜びを見い出している ひとに、一時の娯楽や休息は必要であっても 時間潰しの趣味など無用であって、喜びの代 わりに苦痛や絶望でさえ生きがいとなること を私は知っている。
 大げさではあるが、宇宙の歴史をもう一度 やり直しても今の自分は二度と生まれてはこ ない。その自分の時間を趣味に費やすのは優 雅でなくて哀れである。ついでに言えば、時 折「趣味は仕事」と言うマジメぶった阿呆が いるけれど、これは仕事を趣味として、つま り時間潰しとしていい加減に空費しているこ とを広言していることになるわけで、私はこ の種の人物は絶対に信用しないことにしてい る。彼らがまともな仕事をするという話は聞 かない。何を勘違いしているのか、これは趣 味人にも劣る社会の迷惑でしかない。
 イラストレーターの渡辺和博が昔、「ホー ケー文明のあけぼの」という本を書いていた けれど、時代はそのとおりに進んでしまった のだと思う。包皮に包まれてぬくぬくと過ご す亀頭のように、ひきこもって、自分だけの 取るに足らない世界に安住する。世の中の大 多数がいつのまにかそうなってしまった。ひ きこもり青年と自分は無縁と思っている裕福 なおじさんたちも、生きる喜びを見い出すこ となく、いつのまにか取るに足らない趣味人 の集団になってしまった。
 まともそうに見える大人たちまでが、実は 内心ひきこもって人生を空費している。何も 考えていない分、おじさんたちの方が本物の ひきこもり青年よりもたちが悪いのかもしれ ない。そんなおじさんたちにとって「カメラ いじり」はきっと最上の趣味なのだろう。た だ、そんな空虚な時代がいつまで続くのか、 それは誰にも判らない。
 植木等の「ホラ吹き節」に「ホラも吹かな きゃホコリも立てず、いびきもかかなきゃね ごとも云わず、ボソボソ暮らしても世の中ァ 同じ」という歌詞があるが、これを座右銘と して生きてゆければ、と私は思う。「デッカ イホラ吹いて、ブァーッといこう、ホラ吹い てホラ吹いて、吹いて吹いて吹いて吹いて、 吹きあてろ」と続くのだが、これは断じて趣 味の生き方ではないのである。「酔狂」とは こういう生き方を言うのかもしれない。



[ BACK TO MENU ]