「ブエノスアイレス」の神話のために

森山大道の新作写真集「ブエノスアイレス 」を今、私はしげしげと眺めている。昨年、 南米アルゼンチンの首都を二度訪れた森山が モノクロームとカラーで撮りまくった、ぶ厚 い写真集だ。
 私の正直な感想を言わせてもらえば、この 写真集は圧倒的で力強いけれど、実に細やか に洗練されている、ということだ。これは写 真家が紡ぎ出した物語であると同時に、遠い 町の生々しい断片の集積でもある。リアルだ けどもどこか優しくて懐かしい。森山の前作 「新宿」の影が時折「ブエノスアイレス」に かいま見えるのは当然としても、「新宿」に あったあざとさがここには無いと私は思う。 それは、ふたつの町の違いがそこに現れてい る以上に、森山自身の町への思い入れの違い なのだろう。
 この写真集は、写真家がブエノスアイレス へ向かう旅客機の機内の写真、その窓から見 える町の夜景の写真から始まる。つまり、こ の写真集は旅の産物であることが最初に明示 されているわけだが、彼はすぐにブエノスア イレスに溶けこんで、町の一部になって撮り 続けてゆく。まるで、ずっと昔からこの町を 知っていたかのように森山のフットワークは 鮮やかである。彼の言葉どおり、硬と軟、富 と貧、昼と夜、そして男と女の間を森山のカ メラは歩き続ける。それがブエノスアイレス のざわめきを生き生きと映し出し、同時に森 山大道という写真家の今までの仕事の影をあ ちこちに産み落とし、そしてこの写真家の新 たな可能性をもかいま見せてくれることにな った。
 つまり、この写真集は森山大道のターニン グポイントなのだと私は思う。今から二十年 前に「光と影」で再生し、十年前に「ヒステ リック」シリーズで硬質で圧倒的な言語を獲 得した森山の豊かな稔りがこの「ブエノスア イレス」なのではないか。そこに至る百戦錬 磨の歩みの中で、森山の言語はついに「優し さ」をも獲得したのだと思う。ブエノスアイ レスの女たちや子どもたちを撮った写真、そ してカラーで撮った全ての写真を見るとそれ がよく分かる。
 その「優しさ」は、おそらく森山自身の記 憶との、叙情性とのしぶとい闘いの果てに獲 得されたものなのだろう。村上春樹の長編小 説「海辺のカフカ」で、佐伯さんという中年 の女性が「思い出はあなたの身体を内側から 温めてくれます。でもそれと同時にあなたの 身体を内側から激しく切り裂いていきます」 という言葉を残して亡くなってしまうけれど 、森山はそんな闘いから見事な果実をともな って帰還したことになる。かつて「記憶」に あれほどまで固執していた写真家が、二十年 以上の時間をかけてそれをなし遂げたことは 写真の勝利以外の何物でもないはずだ。それ が私を本当に勇気づけてくれる。
 そんな写真家が遠い異国の町をめぐり、町 のざわめきとともに彼自身の記憶や憧れをも めぐったこの写真集は、暗夜に輝く線路の写 真で終わる。線路の先には光が溢れる出口が 写っている。それは、もしかしたら新たな神 話の入口なのかもしれない。二十年前に森山 が記したエッセイ「犬の記憶」の終章は「光 の神話」と題されていたけれど、「ブエノス アイレス」の最後にあるのは、その思考から もかけ離れた、ただ光が輝いているだけの圧 倒的な神話であり夢なのかもしれない。それ は始まりであり、終わりであり、無数のひと びとの物語を抱えこんで輝く強烈な光。
 写真が終わった後に森山のあとがきがある 。初めて訪れたこの町が、彼が二十代の頃か らの「心の内なる場所」であったことが語ら れる。つまり、この写真集は写真家自身の長 い間の憧れを検証する旅でもあったわけだが 、それを実現するためには本当に長い時間が 必要なことがそこから伝わってくる。
 それと比べるのは僣越きわまりないけれど 、私自身の「心の内なる異国の町」はずっと パリだったから、そして何十年の憧れの果て にようやくそこを訪れて私は写真を撮りまく って、紆余曲折を経てその展覧会を開いた経 験が私にはあるから、そしてそのことが私を 大きく変えてしまったことを自覚しているか ら、その経験を思い出せば、ここで森山が語 っていることは私にはよく分かるような気が する。初めて訪れる憧れの異国の町、そこを 歩く時の不思議な懐かしさ、それを私も体験 したことがあるから。
 ただ、パリはともかくとして、私自身はブ エノスアイレスという町に特に思い入れを抱 いていたことは無い。神秘的な短編を数多く 残した作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが生 きた町、というくらいの認識しか私には無い 。しかし、ブエノスアイレスはラ・プラタ河 の河口をへだてて、隣国ウルグアイの首都モ ンテビデオに対している。そして、モンテビ デオは私の最愛の詩人のひとりである筆名ロ ートレアモン伯爵ことイジドール・デュカス の故郷である。彼の唯一の詩集「マルドロー ルの歌」に唯一、ブエノスアイレスとモンテ ビデオの関係に言及した文章がある。その「 第一の歌」の最後の詩節を栗田勇訳で引用し てみる。

現象の外観を信頼することが、ときに論理 的でありうるとするならば、まさに第一の歌 はここにおわる。まだ、詩の竪琴を試みたば かりの者にたいして、諸君、苛酷になりたも うな。なるほど琴は奇妙な音をたてている! しかしながら、諸君が公平たらんと欲するな ら、さまざまな不完全さのなかにも、強い特 色をすでにお認めになっているはずだ。さて 、ぼくのほうは、ふたたび仕事にとりかかろ うとしている。ほど遠からぬ時期に第二の歌 を出版するためである。十九世紀末は、現代 を代表する詩人の出現をみるであろう(だか らといって、のっけから一大傑作をもって登 場というわけにはゆかない。やはり自然の法 則に従わざるをえない)。ところで彼はアメ リカ海岸、ラ・プラタの河口で生まれた。は やくもライヴァルとなった左岸右岸の国民が 、物質的また精神的進出によって相手を凌駕 せんものと現に競いあっている。南の女王た るブエノスアイレスと、婀娜女というべきモ ンテヴィデオは、大河口の銀色の水をこえて 友情の腕をたがいにさしのべあっている。し かるに永遠の戦いが、破壊の大権を山野にお よぼし、いまや数知れぬ犠牲者たちを嬉々と して殺戮している。さあ、老人よ、ぼくの本 を読んだのなら、ぼくのことを想ってくれ。 また君、青年よ、決して絶望してはならない 。君は吸血鬼のなかに、たとえ意見は異なる にもせよ、一人の友を持っているのだから。 おまけに疥癬を生ずる疥癬虫を勘定にいれれ ば、君は二人の友を持つことになる。

長い引用になってしまったけれど、これが 散文詩集「マルドロールの歌」なのだから仕 方がない。著者のロートレアモン伯爵ことイ ジドール・デュカス青年は、一八四六年にフ ランス人移民の子としてモンテビデオに生ま れている。当時ウルグアイとアルゼンチンは 戦争状態にあったという。彼は生後すぐに母 を亡くした後、十代の初めにひとりで父の故 郷フランスの田舎町に渡る。そこで高校を卒 業し、いちどだけモンテビデオに里帰りをす る。その時、フランスからの船が着いたのが ブエノスアイレスだったらしい。故郷で父と 会った後、すぐにフランスに戻った彼はパリ で創作にはげみ、「マルドロールの歌」を完 成させるものの無名のまま一八七〇年、普仏 戦争のさなかパリで亡くなってしまう。
 戦火の中に生まれ、新たな戦火の中で短い 生涯を終えたこの詩人は、フランスとウルグ アイの二重国籍者であり、フランス語とスペ イン語のバイリンガルであり、おまけに母無 しのひとりっ子だった。不思議なことに、両 親の祖国でひとり書き続けた「マルドロール の歌」に、自らの少年時代の想い出の舞台で ある南米の自然や町並みはあからさまには顔 を出さない。その、望郷の念を必死で抑えて いる切なさが「マルドロールの歌」にすさま じいリアリティを与えている、と私は思う。 「ロートレアモン」という筆名でさえ、フラ ンス語で「ロートル・エ・ア・モン」つまり 「もうひとりの私はモンテビデオにいる」と いう意味だという説がある。
 故郷モンテビデオと、そしておそらくはブ エノスアイレスをもかけがえなく愛していた 孤独な青年が、遠い異郷で、まるで神話のよ うな「マルドロールの歌」を生み出した。逆 に言えば、このふたつの町にはそんな神話を 生み出すだけの力がある、ということなのだ ろう。その百数十年後、日本人の写真家によ って作られた写真集「ブエノスアイレス」に もその神話的な力は確かに現れている。
 ところで、森山大道はブエノスアイレス滞 在中、当地の国立図書館の前を通ることはな かったのだろうか。現在は移転しているとは いえ、そこは本物の「ボルヘスの図書館」な のだ。
 架空の書物から夢を紡ぎ、ブエノスアイレ スの町とアルゼンチンの自然を舞台に壮大な 迷宮を描き続けた小説家ホルヘ・ルイス・ボ ルヘスは、実際に図書館員としてこの町で暮 らしていた。この、二十世紀の大半を生きた 長命の作家の短編群を、他の凡百の作家たち のそれと一緒にするわけにはゆかない。
 ボルヘスの博識と想像力によって、ひとび とがざわめくブエノスアイレスの町が、そし てそこにある図書館がそのまま全宇宙の縮図 となって果てしない夢に転じてゆく。現実の 荒々しさと幾何学的な精緻さが見事に融合し て円環をかたちづくり、そこでは永遠の時が 刻まれている。
 そして、写真集「ブエノスアイレス」巻末 のあとがきとエッセイにはスペイン語訳が付 されているし、この写真集のためにアルゼン チン大使館が取材に協力していることが巻末 に記されているから、この写真集は実際に「 ボルヘスの図書館」の蔵書になっているのだ ろう。これは夢と現実が融合するとんでもな い事態だと私は思うのだ。
 ボルヘスの有名な短編「バベルの図書館」 では、ブエノスアイレスの図書館がこの宇宙 の象徴として描かれ、その蔵書が星々の織り なす星座の象徴として描かれている。それら の関係を探るこの短編は、おそらく宇宙の無 限の可能性を探る試みである。そこに今、ブ エノスアイレスのざわめきとひとりの写真家 の夢を封じこめた写真集が実際に加わったの である。この写真集は、図書館という宇宙の 外に広がる「現実」を映し出す星座のひとつ になったわけである。
 つまり、このことによってメビウスの輪や クラインの壺のように、夢と現実が裏返しに なってつながってしまったことになる。これ は現実であるがゆえに壮大な夢である。はた してボルヘス自身こんな事態を予測していた だろうか。このとんでもなさを理解してもら えるなら、これは写真に夢と現実をつなぐ力 がある何よりの証拠になる。
 最後に、その「バベルの図書館」の最後の 一節を引用してみたいと思う。写真集「ブエ ノスアイレス」の息吹とはまるで正反対の精 緻さが、別の夢を生み出すかもしれない。

…図書館は無限であり周期的である。どの 方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切った とすると、彼は数世紀後に、おなじ書物がお なじ無秩序さでくり返し現れることを確認す るだろう(くり返されれば、無秩序も秩序に 、「秩序」そのものになるはずだ)。この粋 な希望のおかげで、わたしの孤独も華やぐの である。



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