私の盛岡、ふたつの故郷

この文章を書き始めた今はまだ現像が上が ってきていないので、はっきり決まったわけ ではないけれど、今月の写真はローライフレ ックスの二眼レフで撮った岩手県盛岡市の写 真になるはずである。その写真の説明をここ でするつもりはないけれど、今の私が盛岡で 、しかもわざわざ今住んでいる長野県上田市 から二眼レフを持ちこんで撮るのはどうして なのか、ということを少し書いておきたいと 思う。
 以前も書いたことがあるけれど、盛岡は私 の生まれ故郷である。両親とも盛岡の出身な ので、私は年に二回、お盆と正月に必ずこの 街に帰省することになる。しかし、父が転勤 族だったために、私は盛岡には幼年時代の数 年しか住んだことがない。幼稚園に一年通っ ただけで、盛岡の学校には全く縁が無い。だ から、この街に親戚はいても友人はひとりも いない。気に入った店はあっても馴染みの店 は無い。そして、幼年時代のおぼろげな記憶 を別にすれば、盛岡の四季の移り変わりとい うものが私にはよく分からない。一年を通し て住んだことがないのだからこれは仕方ない だろう。
 こうして書き出してみると、私にとって盛 岡という街はずいぶん奇妙なところに位置し ていることが分かる。それでも私にとって盛 岡が生まれ故郷であることに変わりはないし 、そこでの人間関係が特に嫌いなわけでもな い。私はこの街が好きである。盛岡の言葉も 南部せんべいも三陸の海産物も大好きである 。そもそも、偶然めぐり会った上田市にずっ と住み続ける気になったのも、上田の風土が 何となく盛岡に似ているせいでもあるし、上 田がよそ者をとても寛大に受け入れてくれる おかげでもある。そんな街を私は他に知らな い。
 ただ、こんな故郷のあり方は、私の両親と も、また世間一般のひとたちともずいぶん違 っているのだろうな、と思わされることは多 い。私は生まれ故郷を知らないわけではない し、そこを捨てたわけでもない。しかし、そ こで暮らしたことはほとんどない。それでも 盛岡は年に二回必ず訪れてくつろぐ街である 。故郷に愛着を覚えながらも、私は生まれて からずっとそこを他者のまなざしで見つめて きたような気がする。
 生まれ故郷が盛岡なら、私のもうひとつの 故郷は新潟市ということになる。引っ越しを 繰り返しながらも、小学校五年生から高校を 卒業するまで私はそこで過ごしたからだ。二 十代の後半、それがたまらなくなつかしくな って私はもう一度新潟市で生活した。ただし 、盛岡とは逆に、新潟に私の友人や恩人はた くさんいても親戚はひとりもいない。
 私が写真を始めたのは最初に新潟に住んで いた時だったけれど、その後新潟を離れてず いぶん経ってから、私が一番こだわって写真 を撮り続けている場所は盛岡市と新潟市であ ることが分かってきた。
 それを自覚した時から、私はこのふたつの 街を意図的に撮り始めたような気がする。そ の頃の手持ちのカメラとレンズを総動員して 、あえてモノクロームだけで、その頃の私の つたなさを総動員して撮っていたと思う。そ れが97年の私の初めての個展「二都物語 新 潟〜盛岡篇」となった。その展覧会は新潟で も盛岡でもなくて、東京・笹塚の03フォト スで開かせてもらった。ふたつの街の写真は 東京のギャラリーで、その壁面に向かい合わ せに展示するのがふさわしく思えた。
 今思えば、あの時の写真は本当につたない ものだったけれど、全部で二百枚近くの写真 を03フォトスの壁面に余すところなく貼り めぐらせた。俺はこんなに撮れるんだぞ、と 自分に納得させたかったのかもしれない。そ の舞台は私のふたつの故郷以外に考えられな かった。結局、写真家宣言というか、生まれ て初めての個展にだけはそんなわがままが許 されるのではないか、という気持ちだった。 とにかくたくさん撮りたかったし、撮ったも のは全て見せたかった。自分の写真のつたな さなど眼中になくて、良くも悪くも私は若か ったのだと思う。
 故郷というものが私の写真の原点になる、 そんな予感を抱いていたのだと今にして思う 。奇妙に分裂してねじれた関係にある私のふ たつの故郷、それでもかけがえのない、心か らくつろげるふたつの故郷、その関係を私な りに精一杯提示して、ひとまず決着をつけて おきたかったのだ。
 その個展を終えた直後、勤めの用事で私は 生まれて初めて関西方面に足をのばした。意 識していたわけではないけれど、その頃から やっと私は身軽に旅することができるように なったと思う。ほいほいと未知の土地に出掛 けて、そこの空気を楽しめるようになった気 がする。そんなわけで、次の、99年の個展の タイトルは「旅のはじまり」になった。
 そして、そんな未知の土地で「心の故郷」 を発見するのが私のこの上ない喜びになって いった。それは、初めて訪れたとはとても思 えない、本当に心やすらぐなつかしい場所の ことだ。たとえば小説家尾崎翠の故郷である 鳥取県の岩井温泉とか、詩人ランボーの故郷 、フランスのシャルルヴィル・メジエールと か、あるいはパリの裏町とか…
 もうひとりの自分が、そこではやすらかに 受け入れられて充足しているのが分かるので ある。
 結局、今住んでいる上田と、そこから離れ たところにある私のふたつの故郷。この三つ の場所を結ぶ三角形のあり方が、未知の土地 を訪れる私の気持ちを深いところで規定して いるのかもしれない。
 ふたつの故郷をかけがえなく愛しつつ、し かしある距離をおいて見つめ続けること。今 住んでいる上田の日常をいとおしむこと。私 自身の未来を望むためにも、あるいは「心の 故郷」を発見し続けてゆくためにも、私には この作業が欠かせないように思う。
 それを続けるためには、ふたつの故郷を訪 れる時、以前そこで自分なりに撮りつくした 三五ミリ判のカメラでは小回りが良すぎてう まく撮れない気がする。古い二眼レフの鈍重 さと正方形の画面がかえって新鮮な自由をも たらしてくれる感じがある。以前、友人の写 真家、長瀬達治に「阿部さんは手間のかかる カメラの方が自由になれるんですよ」と言わ れたことがあるけれど、確かにそのとおりだ と思う。ただ、フットワークが効かなくなる のは困るので、これ以上大きなカメラを使う ことはないだろうけども。
 それにしても、こんな不思議な故郷をふた つ持っている、ということはやはり私の財産 なのだろう。そのおかげでずいぶんと孤独で つらい思いもしてきたけれど、その代償もま たかけがえなく大きくて暖かい。それを大切 にしてゆく限り、私はこれからも自分なりに 生きてゆけるし写真を続けてゆくこともでき るからだ。
 結局、故郷のことに限らず、ひとは本人の 選択の余地なく人生を始めてしまう。その不 思議を私は今また噛みしめている。
 思い出してみると、私が東京の大学に入学 した後初めて帰省する時、横浜の自宅から通 学していた友人が、帰省する故郷があること をすごくうらやましがったことに私は驚いて いた。故郷のあり方は、ひとそれぞれ違うの だ、ということを私は初めて知ったのだった 。つまり、故郷に対する感傷はひとそれぞれ 異なるわけで、故郷のあり方について思い悩 んで孤独になる必要は無い、という結論が今 になってようやく導き出される。これで私は これからもふたつの故郷の写真を撮り続けて ゆけると思う。



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