壁の穴

「壁の穴」というスパゲッティの店がどこ かにあったと思うけれど、同じ名前の星新一 の短編のことを私はずっと忘れられずにいる 。角川文庫から今も出ている「ちぐはぐな部 品」の最後にそれは収められている。
 星新一を一番熱心に読んでいたのは私が小 学校六年生の時だったと思う。ひとりの作家 を集中して読んだのはそれが最初だった。私 は近所の図書館から星さんの短編全集を借り てきて、それをむさぼるように読み続けた。 それだけではなくて、創作の苦労を綴った星 さんのエッセイや、小学生には難解な父君・ 星一氏の伝記「人民は弱し 官吏は強し」ま でも読んでしまった。そんな文章を読んだの は生まれて初めてだった。
 星さんの短編は、少年にとっても難解なと ころが無い、しかしまぎれもない大人の小説 だから、というのがその理由だと今にして思 う。それは、小松左京や筒井康隆や豊田有恒 の「ジュブナイル(少年向け)」よりもずっ と魅力的で深みがあった。逆に、筒井康隆の 名作「時をかける少女」をいとおしんで読み 返したのは二十歳を過ぎてからのことで、私 自身がその主人公と同じ年代の時には、あの 物語の切なさのようなものを感じとることは できなかったと思う。
 ところで、「ひきこもり」なんて言葉が生 まれるずっと以前、誰かが「自閉症の子ども はどういうわけか星新一の小説が好きなんで すよねえ」と言っていたのを聞いて、二十歳 を過ぎていた私は、言われてみればそのとお り、と不意を突かれたように思ったのを憶え ている。自閉症ではなかったけれど、星さん を熱心に読んでいた頃の私は実生活ではずい ぶん不愉快な目に遭っていたからだった。
 そんな少年たちがどうして星さんを熱心に 読むのか私には分からないし、ましてや星さ ん自身はひきこもりや自閉症の気は無いまっ とうな紳士であられたわけで、これも星さん の謎のひとつだろうと私は思う。
 話を戻すと、「壁の穴」は都会のアパート でひとり暮らしをする若いサラリーマンの物 語で、ある休日の朝に目覚めた時、彼は枕元 に優雅なナイフがころがっているのを発見す る。部屋に誰かが忍びこんできたわけではな い。不思議がる青年はナイフを見つめている うちに、それで部屋の壁に穴を開けることを 思いつく。その穴の先には退屈な日常から遠 く離れた魅力的な異世界が広がっている。し かし、その穴を通り抜けて異世界に踏み込む ことは絶対にできない。何度もそれをくりか えすうち、彼はしだいに自分の退屈さを持て 余し、いらだつようになるのだが、それをど うすることもできない。
 最後に少年時代の自分が住んでいた世界を のぞいた時、現在の自分が最悪の夢の中にい ることを彼は悟る。そして、悪夢をさまそう と穴を壊したはずみに彼はナイフを自分の胸 に刺してしまう。しかし何事も起こらず穴の むこうの世界は消滅し、彼の身体もそれで傷 つくことなく、ナイフもそのまま消滅してし まう。その後に「自分に与えられた時と場所 は、この平凡な生活という永久にさめること のない夢のなかだけなのだ。」という文があ る。
 寓話と呼ぶにはあまりにもリアルで、そこ から美しい憧れををかきたてられはするけれ ど、救いの無いいらだちが読者にも伝えられ る。それでも、数ある星さんの短編の中で、 この「壁の穴」が私は今でも一番好きだし、 これはその後の私に大きな影響を与えてくれ たと思っている。この中から、青年が初めて 開けた穴からのぞいた景色を、ちょっと長い けれど引用してみる。

青年は目をこすり、またのぞいた。広い室 は依然としてそこにあり、鮮明であり、レン ズを通してながめるようなゆがみもなかった 。ながめつづけていると、風のためにカーテ ンが揺れ、そとの景色がちらと目に入った。 それは一瞬だったが、彼の目の底には焼きつ いた。
 異国の街だった。石造りの建物が並び、ひ ときわ高く教会の塔があり、そのむこうには 海があった。彼は海のにおいを感じた。街路 樹は午後の陽ざしをあび、道に影を落とし、 町角の噴水は虹の色に光り……。

星さんの文章は時として散文詩のように簡 潔で美しいけれど、これはその最たるもので はないかと私は思う。この文章を初めて読ん だのは、私が写真を始める数年前だったけれ ど、記憶のどこかに留まっていたこの文章が 、私を自然に写真に導いてくれたのかもしれ ない、とさえ思う。自室の小さな窓から外界 をのぞく、という孤独な行為はカメラのアナ ロジーと考えてもよいのだろうし、それは私 の写真の始まりに何よりもふさわしかったの かもしれない。
 そして、異国情緒を切実にかきたてられた のもこの文章が最初だったと思う。私が実際 に異国を訪れて、そこをさまようまでそれか ら二十年以上かかってしまったけれど、私が フランスの町を歩いていた時に感じた不思議 な懐かしさは、幼い頃の遠い想像の世界にめ ぐり会った感覚だったのかもしれない。その 時に私が歩いた町は、どれも海沿いではなか ったけれど、いつの日か海のある異国の町を 訪れる時、あの記憶がまたよみがえるのかも しれない。

そんなわけで、星さんの短編には乾いたユ ーモアの他に、懐かしい憧れと現在への絶望 が自然な形で同居しているように思える。そ れを正確に読みとることができるのは大人で はなくて、むしろ心に闇を抱えた少年なのか もしれない。
 しかし、不思議なことに星さんの短編の主 人公は少年ではなくて大人であることが圧倒 的に多い。「壁の穴」のような無為な青年や 、大学とは無縁な在野の「エフ博士」である 。星さんの作品で少年が主人公になるのは「 ブランコのむこうで」や「宇宙の声」、「ま ぼろしの星」といった長編が多い。短編の舞 台はたいてい平穏な日常であるが、長編では 夢の中や宇宙空間で、日常とはかけ離れた素 敵な冒険が繰り広げられる。星さんの長編は 大人が読んでも少年が読んでも面白くてどこ か懐かしい。そこには現在への絶望といった ものは感じられない。
 これには、おそらく星さんの経歴が関係し ているのだろう。私も詳しいことは忘れてし まったけれど、お父様の星一氏は星製薬の創 業者であり、星さんは東京大学農学部を卒業 後、星製薬の経営を手伝うものの会社は倒産 、苦労の末に無為の青年となった星さんはS Fに開眼、小説を書き始める。
 その、はらわたが煮えくり返るような不愉 快な経験を、決して直截には語らなかったと ころが星さんの育ちの良さであり、創造力の 秘密だろうと私は思うけれど、その時の経験 が短編にしばしば現れる無為の青年に投影さ れているのだと私は思う。
 彼らは自由であるはずなのに、救いがたい やりきれなさを抱えている。時代が変わって もそんな青年は無数にいるわけで、彼らより も、その予備軍である少年たちの方がその物 語に共感を寄せるのだと思う。自分の将来を うすうす予感している少年たちに、星さんの 物語はいろんなことを強烈に訴えかける。
 そして私自身、気がつけば星さんと同じ農 学部農芸化学科に進学していた。大学も専攻 も星さんとは違うけれど、私がお世話になっ た東京大学出身の先生方は星さんの数年後輩 にあたるらしく、時折星さんの話をされるこ とがあった。私が研究室でお世話になった先 生は、酒を呑むと母校である東京大学の悪口 ばかり言っていたけれど、もしかしたら星さ んにも大学で同じような不愉快な経験があっ たのだろうか。そうだとすれば、そのことが 星さんの短編の主人公「エフ博士」に投影さ れているのかもしれない。
 その「エフ博士」は常に自由な在野の科学 者である。自宅の一室が研究室になっていて 、そこで日夜研究に没頭している。そこに近 所の知り合いや学者仲間や、時には泥棒や強 盗が訪れるところから話が始まる。いずれに せよ彼らは大学や公的な研究機関とは全く無 縁である。そして、短編の一方の主人公であ る無為な青年とは対照的に、エフ博士は実に ほがらかで、研究が楽しくて仕方がない、と いった風情である。博士がどうやって食べて いるのかはよく分からないけれど、これは若 い頃の星さんの憧れの投影なのだろう。
 そんな星さんの物語を幼い頃に読んだ私も 、紆余曲折を経て大学院まで進みながら、幸 か不幸か大学という制度になじむことができ ずに写真家になってしまった。もちろん、一 生研究者として生きる才能が無いこともそこ で明らかになってしまった。私が大学でお世 話になった、星さんの後輩の先生も、「そん なふうに生きてもいいんだよ」といつも学生 に話しておられた。その言葉に勇気をもらっ て、私は大学の勉強もおろそかにしたつもり はないけれど、フォトセッションに参加して 写真にのめりこんでいた。そこには森山大道 先生や、大学ではお目にかかれない魅力的で くせのあるメンバーが待っていたのだった。 そんな私は、もしかしたら世間で一番幸せな 若者だったのかもしれない。写真はもちろん 、大学の勉強そのものやそこでの友人たちと のつきあいもとても面白かったからだ。
 結局、その延長線上に今の私があるわけで 、私はこれから何十年か経って老いを迎える ようになるまでは、写真と、かつて勉強した 世界との間を迷いながら生きてゆくことにな るのだろうと思う。どちらかに専念すること は私には許されないようなのだ。フォトセッ ションが終わる頃、森山先生にもそう言われ たことがあったと思う。「その方が結局いい 写真が撮れますよ」とも。その厳しさを私は すぐに思い知ることになるのだけれど、どう 生きようが結局厳しいのは同じわけで、それ ならこの生き方が私には一番良い、というこ とになるのである。それを認めるのは本当に 悔しいけれど。
 それを悟るために、ここ数年の心の病があ ったのかもしれない。じたばたしたあげく、 私は結局そこに戻ってきた。星さんの物語を 読み続けていた頃の私、大学で勉強しながら フォトセッションに参加していた頃の私、そ の続きに今の私があることを今一度確認でき たのならば、森山先生がかつて「遠野物語」 の最後に書かれていたように、「これが人生 か、よし、もう一度」という場所に私はたど り着いたのだろうと思う。ただ、そこは「壁 の穴」からかいま見る遠い異世界ではなくて 、見晴らしの良い丘のような気がする。その 景色を存分に見つめながら歩き続けようと思 う。私は「エフ博士」にはなれなかったけれ ど、「壁の穴」のような無為な青年でもない のだから。



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