恋に恋して

「恋に恋して」(フォーリン・イン・ラヴ ・ウイズ・ラヴ)という題のスタンダード・ ソングがある。私は天才ピアニスト、キース ・ジャレットがトリオで録音した演奏しか聴 いたことがないので、その歌詞は残念ながら 知らない。この演奏は力強くておしゃれな名 演だと思うけれど、そのレコード「スタンダ ーズ・ライヴ」のジャケットには、フランツ ・カフカが彼の日記にひそかに落書きしてい たイラストが使われているのも面白い。
 凡人とは隔絶した厳しさではあったけれど 、カフカというひとも、本当に恋人に恋をし ていたのか、あるいは「恋に恋して」いたの かよく判らない生き方をしたひとだったと思 う。四十歳で病死するまでの間、彼は結局一 度も結婚することはなかったけれど、自分に 気の無かった女性に必死で手紙を書いて、彼 女と二度婚約している。その他にも恋人はた くさんいたのだけれど、結局カフカと本当に 恋ができたのは、彼の作品の翻訳者であり人 妻だったミレナ・イェセンスカだけだったろ うし、心身ともにカフカをいたわることがで きたのは、彼の死を看取った二十歳年下のド ーラ・ディアマントだけだったのだろうと私 は想像する。もちろん、恋人がたくさんいた にしても彼は「女たらし」ではなかった。カ フカを少しでも読んだことがあるひとならそ れは分かると思う。彼はとてつもなく複雑で 、誠実で、しかも周囲のひとたちに深く愛さ れた男だったのだろうと私は思う。
 それでも、カフカというひとの目があまり にも明晰に見え過ぎていたせいなのか、それ とも彼の精神があまりにも広大な闇を抱えて いたせいなのか、平凡な女性が相手ではその 恋は空回りするしかなかった。そんな恋はや めておけばよいのにと私なんかは思うけれど 、カフカというひとは平凡な結婚をして平凡 な家庭を作ることにも強烈な憧れを持ち続け ていたようだから、そんな蟻地獄のような独 り芝居の恋から結局逃れることができなかっ た。それが小説を書き続けることと両立しな いことも彼は骨身にしみて知っていたのだか ら、彼は結婚を前提にしたおつきあいに関し てはよくよく不幸なひとだったと言う他は無 い。
 そのかわり、彼はこの上なく美しい恋を短 い生涯の内に二度も経験することができた。 また、婚約破棄を二度も経験したフェリーツ ェ・バウアーにしても、彼女はカフカから受 け取った膨大な手紙を生涯守り通した。それ を思うと彼の生き方が幸福だったのか不幸だ ったのか、私には分からなくなる。カフカの 絶筆「歌姫ヨゼフィーネ」をもじって言えば 、「彼は生きていた時から美しい想い出でし かなかった」のかもしれない。
 要するに、カフカのように澄み切った目を 持つことが、そして明晰で思いやりのある頭 脳を持つことが本当に幸福なことなのか、私 には時々分からなくなってしまうのだ。その くらいなら、世間の規範が存在することにさ え気づかないうちに、平凡な人生を送る方が 幸せなのかもしれない。ただ、それが正しい ことだという確信が私にはどうしても持てな いので、カフカの生き方を不幸だったと切り 捨てることも私にはできない。
 ところで、「恋に恋して」という文句は、 相手をきちんと見ることができずに恋という 感情に溺れている人間を揶揄するために使わ れる。私だって今まで恋を経験したことがあ るから、それを今振り返ってみると、私も「 恋に恋して」いたと言うしかない。死ぬだの 殺すだの、そこまで感情がたかぶることのな い大方のひとであれば、そんな平凡な恋愛は いつのまにか世間に受け入れられる「結婚」 に姿を変えて、平凡に幸せに生きてゆけるの だろうけれど、今までの私にそれはできなか った。
 しかし、「恋に恋して」ではなくて本当に 「相手に恋する」恋人たちが世間にどれだけ いるというのだろうか。橋本治の「恋愛論」 に「恋愛というのは恋愛という妄想を二人で 消してゆく作業でしかない」というような発 言があったと思うけれど、そんな高級な行為 を四十前の若者に要求するのは間違っている と今の私は思う。それならば、燃えるような 恋とは無縁なまま平穏で平凡な相手と結婚し てしまう方がずっと幸せというもので、現に 世間の大多数の人間はそんな生き方をしてい るように私には見える。
 こんなことを書くと大方の既婚者に嫌われ てしまいそうな気もするけれど、アナーキー な恋を経験したことが無い連中の大方は、「 恋に恋する」かわりに「結婚という制度と結 婚する」のだと私は思う。しかし、不思議な ことに世間にそんな言い回しは存在しない。 ただの幻想に身をまかせるという意味では両 者とも同じなのだが、あまりにもありふれた ことはことわざにも歌にもならないのかもし れない。
 思い出してみると、私のかつての恋人(? )のひとりもそうだったと思う。「結婚した かったから」という理由で彼女は私の許を去 っていったのだけれど、その時に「あなたの 方が彼(婚約者)よりも私のことを理解して くれているけれど、それとこれとは違う」と いう台詞を残していったのだった。その意味 を私は今、ようやく理解することができるけ れど、彼女が今も幸せに暮らしているのかど うか、私には全く知るすべが無い。それでよ いのだと思う。
 それにしても、本当にこのひとと結婚した くて結婚するひとが世間にどれだけいるのだ ろうか。そこにどれだけの覚悟があるのだろ うか。私にはいまだによく判らない。世間に 転がっている不幸のいくらかは「結婚という 制度と結婚する」あたりから生まれるのだろ うと最近の私は思うけれど、もしそうであれ ばそれは自業自得であって、神も仏もお金も それを根本的には救うことができない、とい うことになる。
 もっとも、サラリーマンであれば結婚相手 をうるさく吟味する必要は無い、という考え 方もあって、仕事をしている時は一緒にいな いのだからそれも当然ということになる。だ からこそ、世間の大方の結婚は何とか続いて いるのだろうか。
 考えてみると、私に恋愛や結婚について深 い忠告や示唆を与えてくれた既婚者は、全員 が自営業あるいは自由業のひとたちだった。 私が憧れの気持ちを持つことができたカップ ルもまた全員がそうだった。彼らは真に信頼 できる配偶者がいないと仕事にならないので ある。だから、彼らはお互いの距離の取り方 が本当にうまいと私は思う。それがあるいは 恋愛の究極の姿なのかもしれない。相手に謎 の部分があることを彼らは素直に認めている ように思う。それはお互いの孤独を認めてい る共生であって、そんな生き方なら今の私で も憧れを持つことができる。そして、彼らは 配偶者以外の異性とつきあう知恵も心得てい るように私には見えるのである。
 この文章を書いている今、危篤状態にある らしい河合隼雄氏は「夫婦を大切にする生き 方というのは、もしかしたら少数の人にしか できないのかもしれない」とどこかで言って いたのを私は憶えている。また、吉本隆明は 「一生のうちに少なくとも一人は結婚したい というひとと必ずめぐり合う」と言っていた のも憶えている。どちらも本当ではないかと いう気がする。カフカのような澄み切ったま なざしを目指しながら、その時を待ちつつ私 は生き続けることにしたい。それはもしかし たら私の特権だろうか。私はどうやらカフカ よりも長生きしそうなので、そんな気持ちに なったのかもしれない。
 ただ、結婚に限らず、制度とか組織という ものに無批判な信頼をおいた生き方をしてい ると、結局人間は幸せにはなれないのではな いか、と私はぼんやり考えている。
 古本屋で見つけた森鴎外の評伝を読んで私 はそう思ったのだが、恋を全うすることもで きず、女性を信頼することもできなかったら しい鴎外が、意外にも女性開放論のような文 章を書いていたのが私には不思議に思えた。 それに比べて、私の永遠のアイドルである南 方熊楠はそんな文章を書くことは無かった。 自由な生き方をつらぬいた熊楠にはそんな駄 文を書く必要は無かったのだろう。そして、 熊楠は妻を含む女性たちに終生変わらぬ愛情 と信頼と憧れを抱き続けた。このことも私は 忘れずにいようと思う。
 鴎外(本名、森林太郎)のように、官僚と しての人生も文学者としての人生も、もしか したら家庭人としての人生も否定して「墓に は森林太郎墓の外一字も彫るべからず」と遺 言して死ぬのなんて不幸だと思う。



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