私の「世間」と「教養」

去る九月、阿部謹也氏が七十一歳で亡くな られた。死因は急性心不全とのことである。 このひとはドイツ中世史の専門家で、一橋大 学の学長を務めた偉い先生なのだけれど、権 威主義的になりがちな日本の学者たちとは根 本的に異なっている自由人なのではないか、 と私はずっと思い続けてきた。
 もちろん、私は歴史の研究をしたことは無 いので阿部先生の論文を読んだことは無い。 しかし、文庫や新書で出た一般向けの著書に は優しさと厳しさが同居しているような深い 魅力があって、そのいくつかを私は繰り返し 読み続けてきた。
 私が最初に読んだ先生の本は、ちくま文庫 から出ている「ハーメルンの笛吹き男」であ る。一読した後の感想は「誠実な学者はいる んだな」ということだった。先生の文章から 、歴史の彼方に埋もれていった無名のひとび との声が生々しく聞こえてきたことに感動し た。時代が変わっても人間のあり方は変わら ない、ということを私に最初に教えてくれた のもこの本だった。その頃の私は二十代半ば で、農学部を卒業した後、工場でフォークリ フトの運転手としてお金を貯めながら、大学 院に進学することを思案していたのだった。 余談ながら、進学が決まって工場を辞める時 、私はこの本を一緒に働いてくれた初老の作 業員さんにお礼としてプレゼントした。
 そして、この本から受けた鮮烈な印象が私 に最初のエッセイを書かせることになった。 その文章は私がかつて出していた個人紙「私 信」に載せたのだけれど、それを森山大道先 生はじめたくさんの方々に褒めていただいた ことが、私のエッセイストとしての始まりだ ったと思う。そんな意味でも阿部謹也氏は私 にとって特別なひとなのである。私にそんな 資格があるかどうか分からないけれど、「先 生」という尊称をつけてお呼びしたくなる数 少ないひとである。
 しかし、阿部謹也先生のような真の自由人 が、日本の大学という閉鎖社会の中で生き続 けてこられた軌跡に、私はどことなく痛まし さを感じてきた。先生ほどの業績と知名度が あれば、一橋大学の学長に選ばれる前に大学 を辞めて自由な学者として生きることも可能 だったのではないかと私なんかは思うけれど 、先生はあえてその道を断って大学の中で戦 う道を選んだ。それはもちろん学問との戦い であり、大学という権威との戦いでもあった はずだ。その生き方は、孤独な修羅を私に思 わせる。
 一橋大学の学長を務めながら、先生は新書 版で「「世間」とは何か」、「「教養」とは 何か」という本を出された。大学内の激務を こなし、そのうえ社会との接点を保ちながら の執筆である。そこには大学という制度や日 本の社会に対する深い批判が語られているけ れど、決してそれは自虐的になることはなく 、あくまでも冷静で、先生の怒りがかいま見 える直前で筆は止められている。その品格が 私に孤独な修羅を思わせるのだが、「「世間 」とは何か」の後書きを読むと、その執筆中 に先生は胃潰瘍で入院されていたことが分か る。「その間数十年ぶりでゆっくりものを考 える時間を持つことができた」と先生は書い ておられるのだが、そこにどれだけの厳しさ と優しさがこめられているか、今にして私は ようやくそれを想像することができる。
 先生の自伝が出版されていることも私は承 知しているけれど、不勉強な私はまだそれを 読んでいない。ただ、著書のひとつ「自分の なかに歴史をよむ」に時折語られているご自 身の想い出話から、私は先生の優しさと厳し さを思い描いてきた。先生は決して世間知ら ずのエリートではなかったことがそこからも よく分かる。
 先生が若かりし頃、研究テーマを決めあぐ ねていた時に、恩師から「それをやらなけれ ば生きてゆけない、というテーマを選びなさ い」と言われた話とか、研究者としてドイツ に留学したものの、肝心の古文書を全く読む ことができない自分を深く恥じた話とか、先 生が記された想い出話は、厳しいながらも私 を優しく励まして下さったような気がする。 その優しさは、私が学問の世界からドロップ アウトして写真家になってしまっても変わる ことはないのである。
 そんな孤独な修羅としての生き方をつらぬ きながら、先生が中年を過ぎて覚えたという 酒の話とか、旅の話とか、ドイツでの生活で おつきあいされた現地のひとびとの想い出話 には、くつろいだ優しさと温もりがあって私 は大好きである。先生は生きることを楽しむ すべを心得ておられたことがよく分かる。
 私にとって最も衝撃的な先生の言葉は、「 「教養」とは何か」の前書きにある「私は不 幸にして人格高潔な人に会ったことがないの で、そのような期待を教養という言葉に持ち 込みたくないのである」というさりげない一 言なのだが、そんな厳しい孤独を抱えながら 、ささやかな酒や旅や暮らしを味わう生き方 は、私にとって学者の理想であり極限である ように思える。だからこそ、激務の果てに病 を得て七十一歳で亡くなってしまうのは、あ まりにも早過ぎる上、痛ましく思えてならな い。自由な学者としての晩年をもっと長く過 ごしてもらいたかったと私は思う。そして、 願わくば今のフマジメな世の中についてもっ と語ってもらいたかった。優しさと厳しさを 持って、しかも下品になることなくそれをす ることができたのは、もしかしたら先生だけ だったかもしれない、と私は思うからだ。

そんなわけで、「ハーメルンの笛吹き男」 の読後に書いた私の文章をここに再録します 。もう十五年も前、私の個人紙「私信」三号 に載せたものです。

去年の五月、熱に浮かされて床についてい た時にキース・ジャレットの「ケルン・コン サート」をかけていた話を前回の私信2にの せたけれど、最近は少し落ちついてこのレコ ードを聴く余裕が出てきた。
 ディスコグラフィーを調べてみると、キー ス・ジャレットがライブで録ったソロ・ピア ノのレコードは全部で六種類ほどあって、そ のほとんど全ての曲にタイトルはついていな い。演奏した都市と日付が曲名のかわりに示 されているだけだ。全くの即興で生まれた音 楽に対するこの態度には少し理由がありそう な気がしている。
 未知の都市に数日滞在したピアニストがあ る日、ホールのステージに立ち、その都市の 聴衆を前にしてピアノを即興でかなで始める 。ところがその音楽からピアニスト個人の感 情は一切聴こえてこない。かわりに「ケルン ・コンサート」ならば、演奏が行われたケル ンという都市にまとわりついているもの、そ れが音楽となって溢れ出ているといった印象 がある。
 ケルンという遠い異国の都市について私は 何も知らないし、興味があるわけでもない。 ただ最近、このレコードを聴いているとどう いうわけか阿部謹也の「ハーメルンの笛吹き 男」という本の終章に出てくる一枚の写真を 思い出すのだ。
 グリム童話に出てくるハーメルンの笛吹き 男伝説。十三世紀にドイツのハーメルンで実 際に起こった一三〇人の子供の失踪事件。こ の事件の経緯を誠実に追跡した研究書がこの 本なのだけれど、その最後の方に「一九〇〇 年頃のハーメルン」という注釈のついた一枚 の写真がのせられている。九〇年前に街全体 を見下ろす小高い丘から撮られたハーメルン の街の全景だ。街の真ん中を河が流れ、河に は橋が架かり、河の両岸には教会をはじめと する石造りの建物が並び、そしてその背後に は畑が広がっている。異国情緒を感じさせる 典型的な西欧の小都市である。
 しかし、この写真からはそれとは別の何か が伝わってくるような気がして仕方がないの だ。それは「ケルン・コンサート」が伝えて くる「都市にまとわりついているもの」のこ とだ。温もりでも怨念でもなくて、うまく言 えないけれど時間のうねりのようなもの。
 ところで地図を調べてみるとケルンとハー メルンは二〇〇キロ近く離れているし、百科 事典によれば二つの都市の性格はずいぶんと 違う。しかし、無知な異邦人にとってそんな ことはほとんど取るに足らないことである。  石造りの都市をおだやかに流れてゆく河を 思わせる「ケルン・コンサート」。結局この レコードはキース・ジャレットのレコードで はなくてケルンという都市が生み出したレコ ードなのだと思う。個人が生み出すものより もはるかに普遍的なものから生まれる音楽に 聴こえるのだ。そしてわが身にひるがえって 考えるならば、この、時間のうねりのような 普遍性に到達するまで、私はもう少しの間息 をひそめていなければならないような気がし ている。

一九九一・二・五


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