通路としての写真

生まれ故郷の岩手県盛岡市に移って一週間 くらいが経ってこの文章を書き始めている。 長野県上田市に十年住んだ後、私は三十数年 ぶりにこの町に住むことになった。しかし、 年に二回はずっと帰省していたから、私にと って盛岡が未知の町というわけでもないのが 微妙なところだ。
 もちろん、盛岡に移ってからも私は今まで どおり、外を歩く時は必ずカメラを肩に下げ て出ている。写真を撮るペースは上田に住ん でいた時と変わらない。ありがたいことに、 私と気が合いそうなカメラ店を見つけること もできた。予想どおり、どこに住んでも私の 写真生活はそのまま続いてゆくようである。 たとえ心身の調子に変動があったとしても、 それが写真に影響しなくなっているのが分か る。
 トランペッターの近藤等則が「感情から自 由になった音を出すこと、それが二十代の俺 のテーマだった」と語っていたことがあった けれど、自分の感情が写真に出る、という弱 さを私はいつのまにか卒業していたのに気が ついた。私が大嫌いな「表現」と縁を切るこ とができたわけで、写真家にとってこれほど 喜ばしいことは無い。相変わらず持て余し気 味の私個人の感情は、あくまでも「写真装置 」、つまり私のアンテナをみがくことに使わ れることになる。
 そんな「写真装置」が観測して写し出すの は、感情とはひとまず無縁に息づく無意識の 消息だと思う。それはもちろん私だけのもの ではなくて、写真を見てくれるひとやこの世 界の背後にまでつながって広がっている。そ れを観測し続ける快楽は何物にも代えがたい し、その快楽をひとと分かち合うことができ るようになれれば、私はもう何も言うことは 無くなるだろう。
 それにしても、上田と盛岡はコインの表と 裏のようにどこかでつながっている町のよう に思えてならない。坂田靖子のマンガ「浸透 圧」に出てくる異次元の膜や、宇宙論で言う ワームホールをくぐって私は上田から盛岡に やって来たように思えてならないのだ。ふた つの町は気候がよく似た城下町という共通点 があるのは確かなのだけれど、歴史的に直接 の交流があったという話を私は知らない。し かし、松尾町とか材木町とか共通の町名がい くつもあるし、盛岡の私の実家の近くは何と 「上田」という町名である。そのせいで、盛 岡で「上田」と言って長野県の上田市を思う ひとは多くない。何百キロも離れた遠くにや ってきた気がまるでしないのはそのせいなの かもしれない。
 私がかつて盛岡に住んでいたのはまだ幼稚 園の時だったから、その頃の盛岡市街の記憶 と言えば、祖母に連れられてお寺を回ったこ とくらいしか無い。しかし、その街路の記憶 は上田城の周りの蔵が並ぶ通りによく似てい る。そのへんの「におい」を手掛かりに私は 撮り続けることになるのだろう。ただ、盛岡 も内陸ではあるけれど、上田ほど高い山に囲 まれているわけではないし標高も高くない。 それが私に解放感をもたらしているような気 がする。不本意ながら、高い山に囲まれた上 田に、私は不快な記憶をよどませてしまった 。そこから逃げ出して、それが消え去るのを 待たなければ上田にも失礼なような気がして いる。
 ところで、夜みる夢と昼間に撮り続ける写 真との間に何か関係はあるのだろうか。上田 に住んでいた頃、私は夢みが悪くてうなされ ることもずいぶんあったのだけれど、盛岡に 移ってからそれが不思議なほど無くなってし まった。夢の中で、会いたい幼なじみに会う こともあるし、軽々と空を飛ぶこともできる 。風が凪いだ海岸で、開け放たれた扉の奥に あるコップの写真を撮る夢もみた。そんな夢 みが、昼間私が撮る写真と何かしら関係を持 っているように思えることがある。それは、 これから写真を撮り続けることで探ってゆく ことなのだろう。
 そんなことを考えながら「東京光画館」六 月号を見ると、この春に私が上田で撮った写 真が掲載されている。今、盛岡からそれを見 ると、異次元の膜を通して私の上田での生活 をかいま見るような気がする。それは懐かし い、というのではなくて、窓越しにもうひと りの自分の痕跡をのぞくような感覚である。 写真がふたつの町を結ぶ通路になっているの だ。
 その通路はふたつの町の間にある距離だけ ではなくて、私の上田での生活と現在を結ぶ 時間の通路にもなっている。そして、私がこ れから撮り続ける写真には、未来への示唆と ないまぜになった形で過去の影が見えてくる のだろう。それが言葉ではなくて、町という 具体性をまとって現れるのが写真の面白さだ と思う。無意識を様々に反射しながら写真が 地下水のように流れてゆく。
 ただ、盛岡にはそれを実践している写真家 がすでにおられる。盛岡の書店に行くと、「 あの角を曲がれば」という写真集が置いてあ るのだが、これは盛岡で生まれ育った写真家 が、年月にともなう町角の移り変わりをカラ ーで撮り続けた貴重な労作である。優しいま なざしを持って丁寧に撮り続けたこの写真集 は、荒木経惟さんの「東京は、秋」に似てい るようにも見えるけれど、それよりもう少し ふくよかな温もりがただよっていると思う。 それは東京の下町と盛岡の違いであり、荒木 さんとこの写真集のあるじ、伊山治男氏との 資質の違いでもあるのだろう。ただ、パリの 街路を撮り続けた写真家アジェの水脈が、形 を変えてふたつの写真集に流れているのは間 違いない。
 私と比較するのは僣越に過ぎるけれど、ア ジェはパリの生まれではなかったと思うし、 様々な土地で様々な仕事をして、四十歳にな ってようやくそこを撮り始めている。そんな 彼があれほど懐かしい、しかし、どこかしら 醒め切ったパリの写真をたくさん残した。ち ょうど四十歳で生まれ故郷に移って来た私は そんなことを思い出してもいる。
 今まで何度も書いてきたことだけれど、私 は荒木さんたちのように、生まれ故郷でずっ と暮らしてきたわけではないので、「あの角 を曲がれば」や「東京は、秋」のような写真 は撮れない。それは写真家としてちょっと悔 しいことだけれど、そのかわり私には「故郷 」と呼べる場所がいくつもある。そんな、や や風変わりな「写真装置」である私がどんな 写真を撮り続けてゆくのか、実は私自身が楽 しみにしている。
 もう少し盛岡に慣れたら、私は上田や新潟 を再訪することにもなるはずである。ふりか えって見る上田というのも面白そうだ。盛岡 近隣の他の町にも足を伸ばすことになるだろ う。上田にいた頃に撮りためた、あちこちの 写真ともそれは絡み始めるだろう。その手応 えを感じた時、私はまた展覧会をやりたいと 思う。その時、もう少し今よりも風通しの良 くなった「通路としての写真」をお見せでき るだろう。
 私もいずれ「どこで何を撮っても阿部は同 じ写真だね」と言われるようになるのかもし れない。しかし、それは一体どんな気持ちが するものなのか、今の私にはよく分からない 。



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