さよならテレビジョン、おはぎの話

今さら私が言うまでもないことではあるけ れど、NHKの集金人にはこれまでずいぶん 腹立たしい思いをさせられてきた。その無礼 で無神経な行状はこれまでたくさんのひとが 報告してきたので、ここで私が付け加えるほ どのことは何も無いだろうと思う。あまり不 愉快な話は書きたくない。「日本の新聞はイ ンテリが作ってヤクザが売る」というのは、 昔あった映画のキャッチコピーだったけれど 、これは日本のマスコミ全般について言える ことなのだろう。
 ところで、求人広告のチラシにNHKの集 金人の求人が出ていることがあるが、それを 読むと彼らはNHKの正職員ではなくて、そ れとは一応独立した個人営業者ということに なっているらしい。個人営業だから、おそら くNHKの社会保険は適用されないのだろう し、彼らが何か問題を起こした時でも元締め のNHKは知らん顔ができることになるのだ ろう。新聞社と販売店の関係によく似ている 。NHKの集金人をやっていた人物が書いた 暴露本のような本を私は見たこともあるが、 とても読むに耐えないように思えたので私は そのまま本棚に戻してしまった。
 …そんなことを書きたいのではなかった。 情報とは本質的に無料であるべきものではな いのか、と私は言いたいのだ。
 有料の情報であるテレビも新聞も週刊誌も 、あれはそもそも無料で享受できる風のよう なものであって、あっても無くてもよい。そ こに正確さと厳しさと良心が求められるもの ではないかと私は思う。テレビも新聞も週刊 誌も、あれば便利だけれど、無ければ無いで 別にかまわない。少なくとも、お金を払って まで見たり読んだりしようとは私は思わない 。無料のメディアであるインターネットが普 及したことによって、そのことがはっきりし てきたように思う。そんなメディアが無くと も、インターネットとラジオがあれば私は充 分である。それ以上のメディアが介入すると 生活の平安が乱される。他にやりたいことは いくらでもある。テレビも新聞も週刊誌も、 外出先で無料で斜め見する程度で私は満足で ある。
 テレビに話をもどせば、「放送」という言 葉は読んで字のごとく「送り放つ」、あるい は「送りっ放し」という意味になる。つまり 、放送局から四方八方に向かって電波を一方 的に発信するのがその実態であって、それを 受信するテレビの数だけ放送局の資産が減る わけではない。もちろん、何千万台ものテレ ビに電波を送り届ける設備は必要になるけれ ど、それでも放送局と受信者は一対一の関係 ではない。放送というのは、よく考えてみる とかなり奇妙なメディアである。
 水道や電気やガスは利用者が使った分だけ 元締めの資産が確実に減るけれど、電波は原 理的にそうはならない。だから、受信者に放 送局がその代金を請求するというのは根本的 に間違ったことではないかという気がする。 本質的に、放送とは受信者にとって無料であ るべきものなのだ。
 さらに付け加えるなら、お金を払っても、 その分だけテレビの映りが良くなるわけでは ない。また、お金を払った者にNHKはそれ 以上のサービスはしていないようである。外 回りのサービス業者は、お金を受け取る代わ りに、それに値するだけのサービスを顧客に 与えているのだ、というプライドを持って仕 事をしているけれど、あの連中にはそんなプ ライドのひとかけらも無い、というのは哀れ でもある。また、NHKのテキストには広告 があふれているのに、その放送には全く広告 を出さないで、受信者にお金を一律に請求す るというのもよく分からない理屈である。企 業努力をして無償で営業するのは不可能なの だろうか。
 いずれにせよ、民放を含めたテレビや大新 聞、週刊誌といったマスメディアが、しだい に時代遅れになってきているのは確かだと思 う。その巨大さにみずからが足を取られて空 回りをしているように思える。それにもかか わらず、お金を払う価値の無い情報にお金を 払い続けていると、我々はいつのまにか洗脳 されてしまうのが落ちだという気がする。そ んなマスメディアには真実のかけらも無くて 、口あたりのよい政府広報くらいに思ってい た方が安心だろう。
 あと数年もするとテレビ放送はデジタル化 されて、現在の受像機は使用不能になるそう だけれど、これはまさにテレビの自殺という ことになるのだろう。それを機会に、私はテ レビを見るのを止めるつもりでいる。いかに デジタル化されようと、テレビがインターネ ットにかなうわけは無いだろう。今、手許に ある受像機はビデオ再生機として使えば無駄 にならない。
 それにしても、マスメディアとはいったい 何なのだろうか。それが無ければ我々は生き てゆけないような幻想が世間に蔓延している けれど、考えてみれば全国規模の大新聞は百 年くらいの歴史しか無いし、その宅配制度が あるのは日本だけであるらしい。テレビに至 ってはせいぜい五十年の歴史しか無い。技術 文明を享受する社会にはマスメディアが不可 欠だという幻想も、インターネットの普及に よって崩壊しつつある。インターネットの他 に、地方新聞やラジオ、あるいは下世話な赤 新聞やフリーペーパーがメディアの本来ある べき姿であるように私には思えてならない。 テレビや大新聞はもはや年寄りの慰みもので しかないと思う。それは、彼らと共に滅んで ゆくのがふさわしいように思える。
 テレビがいちばん活気にあふれて面白かっ たのは八十年代までだったのは明らかだと思 うけれど、あの頃のテレビ受像機は今よりも ずっと巨大な箱だった。その後、技術の発展 にともなって受像機はしだいに薄っぺらにな ってゆくけれど、それにつれてテレビ放送の 内容もどんどん薄っぺらになっていったよう な気がする。くだらない話かもしれないけれ ど、あの、巨大な箱だったテレビ受像機には 、何か民俗学的な意味があったのではないか 、という変なことを私は考えているのだ。
 仏壇も神棚も無い借家暮らしで育った私の 少年時代の話であるが、お彼岸に母がおはぎ を作ると、家族がそれを食べる前に供える場 所は、なぜかテレビの上だったのである。
 これは、私が育った家庭だけの特別な例に 過ぎなかったのだろうか。それとも、仏壇も 神棚も無い家庭ではよくあることだったのだ ろうか。いずれにせよ、今思えばずいぶん奇 妙なことだったという気がする。
 狭い借家では、おはぎを供えるのにふさわ しい場所は巨大なテレビ受像機の上しか無か ったのも確かなのだけれど、あの頃のテレビ というメディアは、あるいはテレビ受像機と いう巨大な箱は、もしかしたら仏壇や神棚の 代わりを務めていたのだろうか。
 仏壇や神棚がご先祖の声を聞き神様のお護 りを仰ぐための装置だとすれば、テレビはま さに高度成長やバブルのお告げを聞いて、そ こに仲間入りするためのメディアだった。か つて、三種の神器とか3Cとか言われて神格 化されたテレビ受像機の上に、おはぎを供え るのは不思議なことではなかったのかもしれ ない。
 あと数年もすれば、テレビ受像機はおはぎ を載せられないほど薄くなってしまうだろう 。その時、私はどんなふうにメディアと接し ているのか、あるいはおはぎをきちんとお月 様に供えてから食べるようになっているのか 、楽しみな気がしないでもない。


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