絶対音感?

最相葉月というひとが書いた「絶対音感」 という本を読んだ。以前、音楽家の友人から 読むように勧められていた本なのだけれど、 ついそのままになってしまっていた。文庫本 になっているのを書店で見つけたので、友人 の言葉を思い出して先日ようやく通読した。 「絶対音感」とは何なのか、たくさんの音楽 家や科学者に取材してまとめたのがこの本な のだけれど、著者は音楽の専門家ではないし 、絶対音感を身につけたひとでもないとのこ とだ。
 それにしても「絶対音感」という言葉には 何か神秘的な魅力がある。しかし、これは聞 こえてくる音の名を当てる能力、あるいは指 示された音名を正確に演奏できる能力でしか ないのだそうだ。それを知って私はずいぶん と拍子抜けしてしまった。絶対音感とは音楽 の才能と同義なのだろうと私はずっと思いこ んできたからだ。しかし、極論してしまうと 、それは音を正確に聴き分ける能力でしかな いわけで、絶対音感とは「音楽性とは全く関 係のない物理的な能力」という作曲家の池辺 晋一郎の意見がこの本で紹介されているけれ ど、門外漢の私にはそれが一番適切な見解で あるように思えてしまう。
 これは、聞こえてくる音楽を楽譜に起こし たり、指揮者が大勢の音をまとめたりする時 にはさぞかし便利な能力だろうと私も思うけ れど、それは音楽家にとって必要条件でも十 分条件でもなくて、あれば大変便利なひとつ の能力に過ぎないらしい。ただ、これは本当 の才能とは違って、あるかないか客観的な( まさに絶対的な)判定が容易な能力なので、 それを身につけることに音楽家たちが過度に 憧れてしまう傾向があるようだ。そして、あ まりにも便利な能力であるだけに、音楽家自 身がそれに振り回されてしまうことも多いら しい。
 私にはもちろん絶対音感は無いし、音楽家 になれると思ったことも無いから、この能力 が音楽家にとってどんな意味を持つのか私に は分からない。ただ、この能力が過剰に取り 沙汰されるクラシック音楽というものは、才 能よりも技術が先走りしやすい、かなり危う い世界であると思う。
 私はどういうわけか、才能と技術は全く別 のものであるということを最初から知ってい た。そして、技術というものは、どちらかと 言えば才能を生かすためにみずからの意欲に よって身に付けていくものだということも私 は知っていたのである。そんな悠長なことを 言っていてはクラシックの音楽家にはなれな い、というのも真実であるらしく、だからこ そ、技術だけは超一流であってもまるで空っ ぽな若手が狭い世界で渦を巻いている、とい うことになるのだろう。それは音楽に限った ことではないのかもしれない。せめてクラシ ック音楽くらい、技術や適性ではなくて才能 と意欲で生きるひとたちの世界であってほし い、というのは門外漢の勝手な思い込みなの だろうか。
 作曲家の武満徹が若い頃、「突然からだ全 身に音が聴こえてきた。いつまでも鳴り止ま ないんです。」という体験を繰り返していた のを知って、私は才能とはこういうものなの だろう、と深く納得したのを憶えている。そ んな才能を持ったひとだけが音楽家になる資 格がある。私にはそんな体験は全く無かった ので、これで私は音楽や音楽家というひとた ちにつまらない未練を持たなくてよいのだな 、と思って何だか気持ちがとても楽になった 。それは私が二十代なかばのことだったけれ ど、それ以来私は音楽をより深く楽しめるよ うになったと思う。そして、私は自分の音楽 を作り出す才能が欠けているからこそ、こう して他人の音楽を麻薬中毒患者のように聴き 漁らなければならないのだな、ということも 分かった。プロの音楽家というのはそんな人 間のために存在するのだろうと思う。
 そんな才能の前では、絶対音感とかただの 技術にどれほどの重みがあるというのだろう か。その才能にふさわしいだけの技術を必死 になって身につけて維持してゆく必要がある という、それだけのことではないのか。
 こんな当たり前のことが今は当たり前では なくなっているらしい。写真だってそうだ。 でも、分かっているひとはたとえ少数であっ てもきちんと存在する。だからもう私はそれ について文句を垂れることは止めてしまいた い。文句を言っても自分が卑しくなるだけだ 。分かっている少数のひとの作り出すものと 何とかしてめぐり会って、それを心ゆくまで 味わっていたい。そして、私が作り出すもの がそんなひとたちに愛されるのであれば、私 にとってこれ以上の幸せは無い。また、そん なものでなければ、それが専門家以外のひと に愛されることも無いはずだ。
 唐突ではあるけれど、私にとって最高の批 評家は、そんな「分かっているひと」と、写 真にあまり関心が無いけれども誠実に生き続 けている「普通のひと」なんだ。


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