極楽とんぼ

図書館で雑多な本を読み漁っていたら、数 年前に頓死した、ある編集者が二十年くらい 前に新人作家に対して行ったインタビューが 目についた。この人物は文芸誌の編集長を務 めるかたわら、手当たり次第にいろんな世界 に顔を出して評論家づらをしていたのを私も 憶えているけれど、その厚顔ぶりも災いして 、結局は死後あちこちで悪口を言われている らしい。しかし、その仕事ぶりを哀惜するひ とも少なからずいるようで、やはり世の中に はいろんなひとがいる。誠実な編集者はさぞ かし迷惑しただろうなと私は想像する。
 それにしても、そのインタビューが実に下 品に思える。大家やその子息にはへつらい、 新人の前では威張りちらす厚顔さがここにも 現れているし、それはこの人物が死ぬまで変 わらなかったらしいけれど、私はそこに二十 年前、つまり八十年代の下品さを見てしまっ た。「そう言えば、この程度の時代だったな 」と目が醒めたような気がして、私は恥ずか しながらようやく八十年代の亡霊を振り払う ことができた気がする。
 いちど固着してしまった幻想を捨て去るに は長い長い時間がかかってしまうことがよう やく私にも納得できたのだが、これで私は昔 の左翼人の転向とかオウムの脱会者をせせら 笑うことができなくなってしまった。人間は 何かを信じていなければ生きてゆけない生き 物である、というわけで、言うまでもなく、 あの頃の私だって充分に滑稽だったはずなの だ。いろんなひとに迷惑をかけてしまっても いる。記憶や想い出というものはきっと過剰 に美しいか過剰に醜いか、そのどちらかなの だとは思うけれど、それでも記憶や想い出を 離れて私は生きてゆくことができない。身勝 手な幻想に時折は冷水を浴びせながら共存し てゆく他は無い。
 憂き世を一応ひとなみに生き抜いてはいる けれど、それでもこんなふうに生まれつき私 の頭のどこかが別世界に通じている。別世界 ではなく身勝手な妄想と言ってもよいかもし れない。ただ、前述の編集者のように、ひと にそれを押しつけるつもりは毛頭無い。どち らかと言えば、私はそれを「教えてやんない もんねこの楽しさ」と思ってしまうたちであ る。苦しみも含めて、どこかしらひとりで悦 に入っているのだろう。しかし、それが泉の ように自然にあふれてくるので、私は写真を 撮り文章を書いているような気がする。
 それを当たり前と思って今まで生きてきた けれど、実は、私のような人間を「極楽とん ぼ」と言うのかもしれない。もちろん、極楽 とんぼだってそれなりに大変な思いをして生 きているのだが、そんなことを言い張っても 仕方がないし、世間の言う「現実」と「妄想 」がしばしば逆転しているのが極楽とんぼの そもそもの特質である。
 たとえば、私はお金というものが信じられ ない。お金で動くものが現実である、と考え ることがどうしてもできないのだ。これは持 って生まれた性向と言うしかなくて、幼い頃 に遊んだ「人生ゲーム」のおもちゃのお金の ちょっと高級なもの、という程度にしか私は お金を信じることができない。
 お金を信じられないから、お金を必要以上 に貯めたり浪費したりする快楽というものが 私には分からない。だから、賭け事も投資も 借金も私にはできない。年金の掛け金も上の 世代への税金だと思って私は払っているだけ で、それが戻ってくることを全く期待してい ない。
 それこそ八十年代バブルの終盤に、遣うあ ての無い貯金を抱えていた時は毎日が不安で 仕方なかった。あの頃、誰もが抱えていた余 分なお金を私ほどうまく遣った人間はいない だろう、と今でも私は確信しているけれど、 他のひとはあれをどう遣ったのか、私には不 思議で仕方がない。必要な貯金はともかくと して、自分で稼いで作った余分な貯金は真綿 のように息苦しかったのを憶えている。
 その後、ぎりぎりの生活費のために不愉快 な仕事を続けていた時も、私は全く別のこと を考えてそれをやりすごしていた。そのあげ く、病気をしてお金が無くなって孤立する恐 怖も私は味わったことがあるけれど、それで も借金取りに追われる恐怖よりもマシなので はないか、と思って私は何とかそれをしのい でいた。そんな時でも、私にはいくらか貯金 があるように他人には見えていたみたいで、 これもまた不思議なものだと思う。
 あの、気まずくて心細くて寒い思いをずっ と味わいたいとは私も思わないけれど、それ でも不思議なことに「お金さえあれば」と悔 んだことは無かったと思う。「無いんだから 仕方ないよ」と思って苦境を何とかやりすご していた。たかがお金が無いだけさ、と私は お金をハナから馬鹿にしていたのである。こ れは負け惜しみとは違うと思う。もしかした ら、お金が身にしみないせいで、私は何があ ってもめげずに生きてこられたのかもしれな い。一生そうなのかもしれない。
 だから、数年前にホリエモンなる人物がも てはやされたり失脚した時も私は何の感想も 持てなかった。「金で買えない物は無い」と か「金儲けのどこが悪い」とかいう発言が何 を意味しているのか私には理解できないから だ。これでは馬鹿と言われても仕方がない。 しかし、馬鹿でも生きてゆけないことはない のである。
 私がやってみたい、お金に関する遊びは、 高い所からひと混みに向かってお金をばら撒 いて、そこに群がるひとびとを見物すること なのだが、こんな人間に経済学や金融論の理 屈が理解できるわけが無い。だいたい、金( きん)という金属がどうしてお金の基本にな るのか、私にはどうしても理解できない。あ んなものは、軟らかくて電気をよく通して化 学的に安定な、ただの金属のかたまりに過ぎ ないではないか。それとも、あの黄色い輝き には人間を狂わせる強烈な力があるのだろう か。そうであれば、経済学とか金融論という ものは、金の輝きが人間に引き起こす幻想な のだろうか。
 私にしてみれば、その幻想は生化学のへた くそな物真似と考えてみると面白くなる。A TPという化合物は生体内のエネルギー通貨 である、という決まり文句が高校の生物の教 科書に出てくるけれど、私は経済のしくみよ りも先にそれを学習してしまったので、経済 や金融をその枠組みで捉えてしまう困ったく せがあるみたいだ。養老孟司さんは、お金と は脳内の信号のやりとりが体外に出たものだ 、と言っていたけれど、お金は生体内でのエ ネルギーのやりとりが体外に出たものだ、と 考えてみるのはどうだろうか。
 精巧極まる生体内のエネルギーのやりとり や脳内の信号のやりとりに比べれば、現実の 経済も金融も、あるいはそれを研究する経済 学も、欠陥だらけのお粗末なしろものではな いのか。その証拠に、経済学者の言うことな ど競馬の予想屋ほどにもあてにならない。彼 らは起こった事象についてあれこれ解説する だけで、そこから有益な教訓を引き出してい るのかどうかも疑わしい。
 マルクスとダーウィンとフロイトは二十世 紀を狂わせた三悪である、という意見があっ た。私にはよく分からないけれど、三人の理 屈はちょっとだけ正しくて後はいかがわしい 、いくらでも我田引水できる極めて便利で危 険なものなのだそうだ。であれば、資本論と か進化論とか夢判断とかいうものは話半分に 聞いている方が面白いものなのだろう。
 そんなものよりも、ずっと歴史が長くて信 頼できて、面白いうえに切実なものが世の中 にはたくさんあるはずだ。それをわきまえた うえで金儲けをするのはきっと大変に愉快な ことだと思うけれど、今の私にそれは出来そ うにない。残念に思う。
 結局、大した理由も無くお金が入ってきた りするのは大変に愉快なことなのだろう。努 力して大金を得るよりもそれはずっと楽しそ うだ。私もこれから生きていればそんなこと もあるかもしれない。言っていることは正反 対だが、「お金は少し足りないくらいがちょ うどいい」という内田百鬼園の名言も、どこ かしらそこにつながっているように私には思 える。このひとこそ究極の「極楽とんぼ」だ ろうか。
 貧乏生活を優雅につらぬいた百鬼園先生ほ どではないにせよ、もちろん私だって最低限 のお金が無くては生きてゆけない。実は、こ のことは私の妄想が世間に堂々と通用してゆ くことの何よりの根拠なのだ。この、極楽と んぼの理屈を理解してくれるひとがはたして どれだけいるだろうか。


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