微笑みがえし

七十年代なかばにキャンディーズというア イドルグループがあった、なんてことは今さ ら私が書くまでもないことだと思う。私は彼 女たちのファンではなかったけれど、あの可 愛らしさと歌は確かに唯一無二のものだと思 うし、その解散コンサートは私の中学校の入 学式の直前だったので特に印象深く憶えてい る。
 当然のことながら、彼女たちのファンは当 時二十代くらいの男性が多かったわけで、泉 麻人の「B級ニュース図鑑」には、その解散 コンサートでひと目をはばからず集団で泣き 崩れる若い男たちを嘆く記事が紹介されてい る。
 しかし、それから三十年経って彼らが立派 なおじさんになっても、そのメンタリティは 全く変わっていないようである。先日、斜め 読みした新聞には、そのおじさん連中が解散 コンサートの跡地に集まって、かつての彼女 たちの録画を前に紙テープを投げて熱狂した 、という記事が載せられていた。その数は二 千人。いい歳をした男どもが、三十年前の本 番同様に肩を寄せ合って泣き崩れたりもした のだろう。異様と言うしかない。「青春の思 い出をふりかえる最後のチャンス」とかいう 恥ずかしいコメントもそこには出ていたと思 う。その主催者は五十代の男性で、東京大学 を卒業後、いまやある会社の管理職を務めて いるとのことである。
 七十歳を迎えたある知り合いが、「今の五 十代はろくな男がいない」と嘆いていたのを 私は憶えているけれど、私が信頼する五十代 男性は、やわらさんを含めて数えるほどしか いない。あとはかつてのキャンディーズの映 像を見て集団で泣き崩れるような腰抜けども や、安倍晋三のような見てくれだけの男しか いないのかもしれない。特定の世代の悪口を 言うのは私は嫌いだけれど、これではあまり にもひどすぎると思う。
 いったい彼らはこの三十年間、何をしてき たのだろう。恥ずかしげもなくそんな馬鹿げ たイベントを催しては熱狂している。そんな ことをする前に、世の中には解決するべき問 題が山ほどある。それに取り組むのが彼らの 責務ではないか。あるいは、今の時代にもっ と楽しいことはいくらでもある。彼らはそれ に目を向けることなく今日もネクタイを締め て生き続けている。そんなおじさん連中が君 臨する今の世の中は、本当に生きるに値する のだろうか、とさえ私は思ってしまう。
 彼らは上の世代に対してどんな恩返しをし たのだろうか。そして、その後に続く私の世 代に対してどんな世の中を準備してくれたの だろうか。この問いに対して彼らは胸を張っ て答えることができるのだろうか。馬車馬の ように働いてきた、という彼らの言い分にも う我々はだまされることは無い。馬車馬のよ うに愚かだったのだろう、と言い返せばよい のだ。彼らは、棚からぼた餅のように降って きた平和で豊かな時代を自分たちの楽しみの ためだけに浪費して、こんなに冷酷で怠惰で 生きにくい世の中を作ってしまった。それに 気づいているおじさんはどのくらいいるだろ うか。
 その上、彼らは「団塊の世代」と自称して 、甘ったれた醜い老人の集団になろうとして いる。個人の尊厳に目覚めることなく一生を 過ごすのは哀れである。彼らはそんな集団の 中でしか生きられない。今になってそのこと が世の中にどれだけの害毒を垂れ流している か。「亡国の徒」とはこんな連中のことを言 うのかもしれない。私はもう愛想が尽きてい るのだ。
 べつに、昔のアイドルの音楽を懐かしむの が悪いとは私は思わない。五十を過ぎたおじ さんがそれに涙するのも悪いとは思わない。 しかし、それは徒党を組むことなくあくまで もひとりでやってほしい。理由はともあれ、 私だってひと前で泣き崩れることはある。し かし、私はいつもひとりである。集団でもら い泣きするなんて私には絶対にできない。虚 像でしかない映画のスクリーンに向かって紙 テープを投げるなんてことも私にはできない 。そんなことは想像もつかない。
 私も過去が、つまり七十年代から八十年代 が懐かしくて仕方が無かったことがあった。 あんな時代がずっと続けばどんなによかろう かと思ったことだってあった。しかし、思い 出は常に身勝手なものである。そのことも私 は知っていた。思い出にとらわれている限り 何も見えてはこない。その時代の醜い部分も 見えないままである。甘い追憶だけにひたっ ていると、結局あのおじさん連中のようにな ってしまう。
 この三十年の間に世の中は大きく変わって しまったけれど、それでもキャンディーズの 歌は聴き続けられている。クラシック音楽の 名曲のように、と言うのはいささか大げさか もしれないけれど、これは、彼女たちの歌が 時代を越えて生き続けてゆくことの何よりの 根拠になる。そうであれば、同時代を体験し た、ということだけを傘に着ているおじさん 連中の醜い所業は、彼女たちの歌に対する冒 涜でさえある。彼らは、その時代と切り離し て音楽を聴くことができないのだ。不幸なこ とだと思う。
 モーツァルトやチャーリー・パーカーとい った天才の音楽は、しばしば「生で聴かなけ ればその本当の素晴らしさは分からない」と 言い張る傲慢なファンがつきまとうものだけ れど、ライヴを体験したファンが絶滅してし まっても、その音楽の本質が変わってしまう ことは無いし、次の時代にも真の理解者はい くらでも出てくる。そうなると、同時代を体 験しただけの傲慢なファンは後世の笑い物に なるだけである。
 それにしても、そんな愚かなおじさん連中 の前に決して姿を見せないかつてのキャンデ ィーズのメンバーはさすがだと私は思う。こ ういう局面では、やはり男は愚かで女は賢い 。徒党を組んだ男どもの妄想につきあうほど 女は馬鹿ではない。そのことくらいは私も心 しておきたいと思う。


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