沈黙を聴くモナド、脱皮するモナド

ソニー・ロリンズの「ザ・ソロ・アルバム 」を聴き返して沈黙について書こうと思った のだけれど、これが上手くいかない。
 このアルバムは、一九八五年にテナーサッ クス奏者のソニー・ロリンズがニューヨーク 近代美術館の庭園で行ったライヴ演奏の記録 で、ここで彼は一時間近くの間、たったひと りで吹きまくっている。何度か小休止をはさ んではいるけれど、演奏が続いている間はほ とんど沈黙は訪れない。時折スタンダード曲 のメロディを織りこみながら、彼にしか出せ ない繊細かつ図太い音で凄まじい即興が続い てゆく。聴衆の拍手と歓声、そして町のざわ めきに迎えられたロリンズが吹き始めると、 私もそれに引きこまれて最後まで聴き通して しまう。何度聴いても飽きないのは奇跡だと 思う。
 楽譜が無い完全な即興演奏をたったひとり でやり通すことができる音楽家は、ピアニス トでさえ数えるほどしかいない。ましてや、 和音を出したりリズムを刻むことが困難で、 息を吹きこむのを止めれば直ちに沈黙が訪れ る管楽器で、即興演奏をひとりでやり通すこ とができる音楽家は本当に少ない。天才ソニ ー・ロリンズでさえソロアルバムはこの一枚 しか無いし、他にソロアルバムを作った管楽 器奏者は数人しかいないと思う。
 それにしても、この演奏をしていた時のロ リンズは沈黙が怖くなかったのだろうか。音 楽はすぐに消え去ってしまって二度と捕まえ ることはできない、と言ったのはエリック・ ドルフィーだったけれど、ロリンズはこの名 言について何と言うのだろうか。どれだけ音 を出し続けても沈黙を消すことはできない。 その重みに耐えかねて消えてしまった音楽家 は数限り無い。沈黙は音楽家を食いつぶす美 しい魔物かもしれない。
 ロリンズの「ザ・ソロ・アルバム」には、 そんな、沈黙にあらがおうとする悲壮な決意 は感じられないけれど、彼がそれまでの五十 四年の人生の中で沈黙の恐ろしさについて深 く考えなかったはずは無いと私は思う。
 ロリンズは長いキャリアの中で何度か演奏 活動を中断して姿を消していた時期があった 。その時の厳しい思索と孤独な練習の成果が このアルバムを支えているのは確かだろう。 五十四歳という、他のサックス奏者なら盛り を過ぎているはずの年齢に至ってからこの奇 跡的な演奏を残したロリンズの天才に私は感 じ入る。それを支えているのは超人的な努力 と集中力であるのは言うまでもないけれど、 彼には楽器を鳴らすことができずに、ひたす ら沈黙を聴くしかなかった時期があったのか もしれない。
 「言語は人間のものですが、沈黙は宇宙の ものです」と語ったのは詩人の谷川俊太郎だ ったけれど、ソニー・ロリンズなら音楽と沈 黙についてどんな言葉を語るのだろう。沈黙 が宇宙のものであることに、彼なら同意する ような気が私にはするけれど、はたして音楽 は人間のものだとロリンズは言うのだろうか 。私には見当もつかない。あるいは、音楽と は沈黙の持つエネルギーを解き放つことなの だろうか。もしそうなら「ザ・ソロ・アルバ ム」にほとんど沈黙が訪れない理由のひとつ が明らかになるような気がする。
 谷川俊太郎はこの発言を「その沈黙のうち には、限りないエネルギーがひそんでいます 」と続けているけれど、私はなさけないこと に、沈黙の持つ強大なエネルギーというもの を実感することがまだできない。ただ、沈黙 が言葉以上に豊かなメッセージを伝えている らしい、ということは最近ようやく分かって きたような気がする。
 そんなものはお前の勝手な思いこみではな いか、という他人の言い分を気にする必要も 無い。卑小な現実しか知らない奴がそんなこ とを言うからである。勇気と好奇心が無い奴 の言い分を聞いても仕方がない。ただし、沈 黙が持つメッセージは誰にでも理解できる形 で現れることは無い、ということくらいは私 もわきまえておく必要がある。世間の常識の 中にそれを持ち出してはならないのだ。それ が私の「常識」である。
 沈黙とは限りなく自由でしなやかなもので あり、その中では常識も因果律も通用しない 。卑小な「私」はその中であっさりと解体さ れてしまう。蛇が脱皮して旧い皮を捨て去る ようなものである、と言ったのは仏陀だった けれど、そこで私は闇を通り抜けて少し成長 する。
 そして、沈黙の中でそれがはらむ可能性を ひとつひとつしつこく検討してゆくと、真実 はひとつの可能性にとどまるものではない、 ということが分かってくる。これは言葉では 表現できないことだと思う。その、多様で矛 盾した可能性の重なりは、たやすく私個人を 突き抜けて無意識の中に入りこんでしまう。 因果律も孤独も越えて、私はそこで豊かなメ ッセージを受け取ることができる。希望と同 じだけ絶望がある。あるいは絶望と同じだけ 希望がある。それは、実は常識や因果律のす ぐそばにあることでもある。気づかないうち に、私も言葉にならないメッセージをどこか に向けて発信しているのかもしれない。
 そんな、沈黙のメッセージを交わすひとび とが持つ関係をどう考えればよいのだろうか 。そんな思案をしていた時に私が思い出した のが哲学者ライプニッツなのだった。
 私は哲学の勉強をしたことは無いので、こ れはしろうとの勝手な思い入れでしかないの だけれど、どういうわけかライプニッツの「 モナド」という考え方は以前から私の興味を 引いてきたのだった。そんなわけで、私は改 めてライプニッツの解説書を読み直してみた り、彼の「モナドロジー」を読んだりしてい る。天才ライプニッツの思想を私が充分に理 解できるわけはないのだが、それでも彼の考 え方は面白い。
 モナドは単子と訳されているけれど、それ がどんな概念なのか私にはうまく説明できな い。それは原子でも元素でもなく、無生物を 含めたあらゆるものに備わっている存在の単 位のようなものであるらしい。それは分割不 能で消滅することは無く、モナドどうしで意 思の疎通をすることも無く、それぞれのやり 方でこの宇宙を反映しているとのことである 。これは、言葉本来の意味での「個」に近い ものなのだろうか。パラボラのように、表面 が磨き抜かれた美しい球を私は思い浮かべて いる。
 モナドどうしの意思の疎通が無いのに宇宙 に秩序が保たれているのは、宇宙が予定調和 の原理によって営まれているから、というこ とになるらしいのだが、ここに因果律を越え た共時性、シンクロニシティの原理を嗅ぎつ けてしまうのは私の強引な解釈なのだろうか 。共時性というのはライプニッツの時代にあ っては西洋よりも東洋の哲学に見られる考え 方だと思うけれど、彼は中国学についても深 い知識を持っていたというから、そんな想像 をすることも許されるのかもしれない。
 モナドどうしに意思の疎通が無くとも、共 時性の原理によって沈黙が雄弁なメッセージ を伝える。沈黙に耳を澄まして生きてゆくな らば、それによって私の未来が導かれ、過去 の意味が明らかになる。時間も距離も常識も 越えて、私は自由を生きることになる。
 哲学がこれほどまでひとを自由にするもの だということを私は初めて知った。それは生 きることを励まし導いてくれる。世界の広さ と希望を明確に教えてくれる。たとえ浅薄な 理解であっても、ライプニッツを読んで良か ったと思う。ふたつの時計が同じ時刻を指し ているからといって、その時計の間に直接の 連絡があるとは限らない、というライプニッ ツのたとえはとても美しくて潔いと思う。こ こに私は因果律を越えた広大な可能性を見い 出したい。
 結局、私というモナドは限りなく孤独で自 由で、しかし開かれていて豊かである、とい うことになる。モナドは自律によって変化し てゆく、とライプニッツは記しているけれど 、モナドは脱皮して少しずつ成長してゆく、 という考え方はどうだろうか。蛇が脱皮して 旧い皮を捨て去るようなものである、という 仏陀の言葉を私は再び思い出す。
 私にとって、こうして文章を書くのがもし かしたらモナドの脱皮に近いことなのかもし れない。実は、文章を書き終わった私はもう その文章とは少し離れたところにいる。そん な旧い皮をひと様にそのままお見せするのは 失礼なことなので、それが天女の脱ぎ捨てた 羽衣となるように私は努力しなければならな い。
 その、脱ぎ捨てた羽衣(?)を仕舞ってお く、たんすのような場所がこの「無限通信」 なのだけれど、書き手の私としては、時折た んすの引出しを開いて、以前はこんな服を身 にまとっていたのか、と確かめてみるのはな かなかに楽しい。その楽しさを、読んで下さ る方も共有していただけるのなら私はとても 嬉しい。それが、モナドどうしの交流につな がることなのであれば私はなお嬉しい。
 そんなわけで、モナドは自律していて窓が 無い、とライプニッツは書いているけれど、 写真家としての私にはカメラという窓がある ような気がする。モナドがその禁制を破って 外界をかいま見た記録、それが私にとっての 写真かもしれない。そんな私の写真は、モナ ドどうしの新たな交感をもたらしてくれるの ではないか、という希望がある。やはり私は 夢みるモナドである。その夢は夢にとどまる ことなく、広い世間の中に飛び出して、数少 ない自律した他者を探すことにも向けられて ゆくのである。


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