無責任宇宙論?

河出文庫から数年前に出たダグラス・アダ ムス著「銀河ヒッチハイク・ガイド」という シリーズもののSF小説を読み始めている。 これは七十年代の終わりにイギリスで発表さ れて、一九八二年に新潮文庫から邦訳が出て いる。世界的に人気を博したとのことで、続 編「宇宙の果てのレストラン」の邦訳もその 翌年に出ている。「シュールでブラック、途 方もなくばかばかしいSFコメディ大傑作」 というカバー裏の文句に嘘は無いと思う。
 当時高校生だった私は、その可笑しなタイ トルにひかれて二冊とも買い求めはしたもの の、ほとんど読まずに手放してしまった記憶 がある。現在、河出文庫から出ているのはそ の第一作の映画化に合わせて出た新訳なのだ が、こんなに面白い本をなぜ読まずにいたの だろう、といぶかりながら私は夢中で、しか しゆっくり味わいながら読み続けている。そ の後、このシリーズは第五作まで書かれて完 結し、その邦訳も出ているので、この先どん な調子で話が続いてゆくのか分からないけれ ど、お楽しみはまだまだ先が長い。
 こんなに面白い本、あるいは全てを笑い飛 ばしてしまう本と言ってもよいけれど、そん なとんでもない本を読んでいると、私は自分 の文章を書くのが何だか面倒くさくなってし まう。それは時間の無駄であるようにも思え てくる。辛気くさい思いを抱えてこうして字 を並べているよりも、すでに出来上がってい る素晴らしい世界にひたっている方がはるか に楽しく有益なのは明らかなのだ。
 余談ながら写真だって同じことで、もし世 の中に魅力的で素晴らしい写真ばかりがあふ れているのなら、私は写真を撮ろうなんて思 うことは無いだろう。本当に見たい写真が見 当たらないのなら自分で撮ろうとする他にな い。私が写真を撮り続けている理由はこれに 尽きると思う。不遜だけれどもこればかりは 仕方が無い。
 話をもどすと、この「銀河ヒッチハイク・ ガイド」シリーズの舞台となっている架空の 銀河系宇宙には、高度な文明を築いてはいる ものの、どこかしら間が抜けていて憎めない 知的生物がいくつも存在していることになっ ている。そうでなければこんなに愉快で奥が 深いコメディは成り立たないのだけれど、現 実の銀河系宇宙は残念ながらこんなふうには できていないらしい。
 現実の銀河系宇宙においても、知的生物が 地球以外の星に存在するのは確かなことだと 科学者は言っているけれど、人類が出現して 以来、何万年もの間、我々はずっと孤独を通 してきたこともまた疑いが無い。
 たとえば、この七月には見事な皆既日食が あったけれど、小松左京の「空から墜ちてき た歴史」には、日食の主役のひとつである月 について「母惑星の大きさに比してこれほど 大きく美しい衛星を、それも視直径が母恒星 太陽とほとんど同じぐらいに見える距離に持 っている惑星は、太陽系の中はおろか、全宇 宙でも珍しいのである」という記述がある。 また、この本には「実際こんなに見事な「皆 既食」が頻々と見られる惑星は、全銀河系の 中でも稀である」とも書かれている。これが 本当ならば、皆既日食というのは地球が宇宙 に誇ることができる唯一最大の観光資源だと いうことになるだろう。しかし、いささかS Fじみた話ではあるけれど、宇宙人がこれを 見物に来る、というようなことは全く起こら ない。
 少なくとも、よその星の日食見物に出掛け るような宇宙人はこの銀河系には存在しない 、ということは言えると思う。高度な技術で 地球の日食を遠くからモニターしている宇宙 人ならどこかにいるのかもしれないけれど、 それをわざわざ見物に来て我々の前に姿を現 すくらいのおっちょこちょいでなければ地球 人とつきあうことはできないだろうと私は思 う。
 要するに、観測可能な宇宙には我々と対面 して意思を通わせられる宇宙人は残念ながら 存在しない。対面することがかなわない、は るか彼方の宇宙人が発する電波を捉えよう、 という試みも行われているけれど、それが成 功したところで彼らと交信することはほとん ど絶望的である。彼らとの間を電波が往復す るだけで百年以上もかかってしまうからだ。 そうであれば、谷川俊太郎の「二十億光年の 孤独」のように、おたがいの孤独をしみじみ と噛みしめる、かすかな連帯の可能性だけが 我々に残されている。
 そんなわけで、我々は誰もが想像を絶する 孤独の中を生きている。それを悟ってしまえ ば、世間の荒波なんてものは実に些細なこと でしかなくなる。見ろよ青い空、白い雲、そ のうちなんとかなるだろう、というわけであ る。
 でも、我々は本当にそんなに孤独なのだろ うか、という疑問もあって、私は以前、この ことを人間と蟻の関係にたとえて考えてみた ことがある。
 「無限通信」の「馬鹿は死んでも直らない 、のか?」がそれなのだけれど、高度な社会 生活を営む蟻にしても、自分たちのすぐそば で人類がはるかに高度な文明を築いているこ とを理解するのは不可能だろう。そんなふう に、もしかしたら、この宇宙には人類の理解 を絶するほどはるかに進んだ文明があふれて いるのかもしれない。我々は地球に巣食って いる蟻なのだろうか。人類が蟻に大して関心 を持たないように、宇宙人も人類にあまり関 心が持てないのかもしれない。我々には宇宙 は広大な暗闇であるように見えるけれど、本 当はそれは「銀河ヒッチハイク・ガイド」の ように、にぎやかで明るくて愉快なところか もしれない。ただ、我々にはそれを確かめる すべが無い。
 ところで、最近いただきもので手に入れた ニホンミツバチの蜂蜜の美味しさに感動して 、私は日曜日の朝には必ずホットケーキを焼 いてそれをかけて食べることにしている。食 後、歯を磨いた後にまで蜂蜜の美味しさが舌 に残るのである。そのおかげで、私は図書館 でニホンミツバチの本を見かけると目を通す ようになってしまったのだが、熱心な養蜂家 によると、蟻と同様に高度な社会生活を営む ニホンミツバチは、養蜂家とある程度は意思 を通わせることができるというのである。
 人間と意思を通わせることができる生物は 、魚類より高等な脊椎動物に限ると私は思っ ていたのでこれは驚きだった。この、ニホン ミツバチの意思の表現は別にテレパシーのよ うなものではなくて、羽音や飛翔の具合とい った蜂たちの明確なボディランゲージによる ものらしい。詳しいことは私は分からないけ れど、養蜂家の意思を動作によって彼らに伝 えることも不可能ではないらしい。そのおか げで、ニホンミツバチはセイヨウミツバチよ りも温和であるし、世話もしやすいのだそう だ。これはニホンミツバチが進化の過程で獲 得した能力ではないか、という見解がその本 に述べられていた。
 社会生活を営む昆虫と人間が意思の疎通を はかることは必ずしも不可能ではないらしい 。そんなニホンミツバチの持つ意思とはいっ たい何だろう。それとも、彼らは集団となっ た時に初めてそんな意思を持つのだろうか。 私には判らない。そして、ニホンミツバチの 宇宙観や人間観というものがあるのならば、 それを人類が知ることは可能だろうか。
 浮世離れした話ではあるけれど、もし、我 々が関知できない高度な文明がこの宇宙にあ ふれているのなら、そんなニホンミツバチの 意思が我々の孤独を考えるための大切な手掛 かりになるような気がする。そして、最近ミ ツバチが農作物の受粉をしてくれなくなった 、というニュースもあった。これが彼らの意 思表示なのかどうか、もちろん私には判らな い。
 いずれにせよ今の私にはなすすべが無いの で、天才ダグラス・アダムスが残した「銀河 ヒッチハイク・ガイド」シリーズを読み続け て、ニホンミツバチの蜂蜜の美味しさをより 深く味わいたいと思う。その合間に、あれや これやと考え続けて生きるしか私には仕方が 無い。そんな生き方は、そのまま「銀河ヒッ チハイク・ガイド」の主人公のように思えて きて我ながら可笑しい。


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