さよなら縄文人

地面を少しずつていねいに堀り下げてゆく 遺跡の発掘の仕事にたずさわっていると、体 力を使うその作業の合間に腰を伸ばしながら 、私はほんの短い間いろんなことを考えてみ たりする。
 発掘を始める前は周囲と高さが等しい空き 地だった場所が、作業が進んで季節が冬に近 づく頃になると、そこだけ人間の背丈にも迫 ろうとする巨大な穴になっていることに気が つく。その大きな穴の中にさらに住居跡や柱 穴といった遺構が大小の穴をなして点在して いる。しかし、そんな遺跡が足元に存在して いることに気をとめずにひとびとはこれまで 生活を続けてきた。それを思うと、土を堀り 下げるという発掘の仕事は、実は時間をさか のぼる行為に似ていることに気づかされる。 作業の合間に汗を拭きながら、これまで堀り 下げた地面の深さを確認するとそんな感慨が 深い。発掘によって現れる地層の断面に、私 は何か別のものを見ようとしてしまうみたい だ。
 歴史の古層、記憶の古層、そんな言葉に私 はずっと魅かれてきた。そこは懐かしいだけ ではなくて、おぞましい怪物が潜むアナーキ ーな別世界なのだけれど、その断面が何千年 も前の土の重なりとして目の前に穏やかに存 在する。そこに今、初めての光が降りそそい でいる。それを堀り起こすために、私は一日 中つるはしを振るっていたこともあって、そ れがきつい時は、これは写真を撮るための体 力作りなのだ、と自分に言い聞かせていたこ ともあった。しかし、それ以上に、発掘の仕 事はもっと象徴的なところで写真にどこか似 ているのではないか、という気がすることが ある。
 旅先でも、私が今住んでいる盛岡の町はず れでも、ふと立ち止まって何気ない景色にカ メラを向ける時、誰もわざわざ写真に撮ろう とはしないそんなささやかな景色の奥深いと ころに、私は記憶や歴史の古層に通じる、懐 かしくもおぞましい何物かを見たがっている ような気がする。
 古くから伝えられてきた地名に深い意味が あるように、誰も気にとめない小道にも何か 深い意味があるような気がする。平地である にもかかわらず、県境を越えると天候が一変 するのに驚くことがあるけれど、古い時代か ら変わることなく定められてきた境界には人 間の都合を越えた深い意味があるのかもしれ ない。養老孟司さんは、昆虫の分布を調べる とそれがよく分かる、と書いておられた。そ こには人間の歴史を越えた、太古から続く地 質学的な意味までも含まれていることがある らしい。
 宮本常一が日本中を歩いて撮り続けた膨大 な写真を見ても私はそんな感慨を抱く。そし てちょっと不遜でしかも悔しいのだけれど、 尾仲浩二さんの最近の写真にも私はそれを感 じる。
 もちろん私は宮本常一のようにも尾仲さん のようにも撮ることはできない。悔しいけれ ども仕方が無い。私は私なりに素直に撮ろう と努める他に何もできない。そんな私が撮っ た写真から何が見えてくるのか、そもそも私 の写真がそんなレベルに達しているのか、そ れも私には分からない。
 ただ、写真というものは、どうやら撮れば 撮るほど分からなくなるものらしい、という ことはおぼろげに分かってきた。生きれば生 きるほど分からなくなる、この人生と同じで ある。写真の得体の知れない自由とはこのこ とを言うのかもしれない。それがたまらなく 心細く感じられることもあるけれど、その色 気のある不思議な包容力は、私が生きてゆく ことにぴたりと寄り添って離れることが無い 。ありふれたものに、信じられないほどの新 鮮さと深みを見ることができるのは幸せなこ とだと思う。
 結局、私が撮る写真には何かどろどろとし たものがアナーキーな秩序を持って現れてく るのだろう。それは日々の仕事で直面させら れる「ざらつく現実」とどこかでつながって いるはずだ。ただ、その正体は私には分から ない。それが実は取るに足らないものである としても、それでも私は素直に写真を撮り続 けるより仕方が無い。
 たとえカメラを持っていない時であっても 、何気ない景色に隠れている、何か深い気配 に感応できるしなやかさと強さを身につけて おきたいと切実に思う。おそらく、もう二度 とたずさわることの無い発掘の仕事が終わり に近づいた今、そんな感慨を私は温めている 。これは、何千年も前に生きて歴史の彼方に 消えていった縄文人からの贈り物だというこ とにしておきたい。


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