始まりの物語

栗本薫さんが亡くなった。しかし、私はこ のひとの本を全く読んだことが無いのでこの ことについて書く資格が無い。中島梓の名前 で書かれた評論を少し読んだことがあるだけ なので彼女の愛読者の方には申し訳ない。
 その「グイン・サーガ」が百巻を越す未完 の大河小説であり、この現実とは全く無関係 な、作者の想像力だけで紡ぎ出された物語で ある、ということは私も知っていた。人生の 半分以上の時間をかけて、ひとつの物語を死 の直前まで連綿と書き続けること。そこから 生まれるのはおそらく、ひとつの物語と言う よりも、お互いに関連しあうたくさんの物語 が織りなすパラレルワールドのようなものな のだろう、と私は想像していた。それが現実 を越えるほどのリアリティーを持ち、多くの 読者の支持を受けて存在し続ける。今の私は 「グイン・サーガ」の内容よりも、そんな物 語の壮大なあり方に興味をひかれる。それに ついて考えることなら私にも許されるのかも しれない。
 栗本薫さんが亡くなった後、鏡明(このひ との本も私は読んだことが無い)というひと が書いた追悼文に「どうして物語に終わりが あるのですかね」というふたりの対話が紹介 されていたのが私にはとても気になる。
 この現実世界には始まりも終わりも無いの に、なぜ物語にはそれが求められるのか。そ れを語り、読む人間の人生に始まりと終わり があるからだ、というのがその答えになるの だろうが、考えてみると、現実世界は永遠に 続いてゆくのに、その中を生きる人間の人生 には始まりと終わりが存在する。そしてそれ はあまりにも短い。これはずいぶん奇妙なこ とではないだろうか。
 この宇宙が遠い未来に死を迎えるのか、そ れとも終末と再生を繰り返して永遠に存在し 続けるのか、あるいはその死と同時に宇宙そ のものが別世界に転移してゆくのか、物理学 でもそこのところは明らかになっていないみ たいだ。しかし、終わることの無い物語が現 実に存在する、ということが、もしかしたら 我々の生と死が、あるいは宇宙の始まりと終 わりがそれほど単純ではないことを示唆して いるのかもしれない。要するに、我々の人生 に明確な始まりと終わりが存在する、という 常識が実はつまらない思いこみではないか、 という疑義がここに生じるのである。
 非常識ではあるけれど、我々はこの宇宙が 続く限り永遠に生き続ける。ただ、肉体を持 って人間として生きる時間がそれに比べると 極めて短い。終わることの無い物語はこのこ とを教えているのではないだろうか。だから こそ、こうして生きていることがかけがえな く尊いということにもなるだろう。そして、 物語を語ることができるのは生きている人間 だけである。
 神様にも悪魔にも、死者にも精霊にも、人 間以外のどんな生き物にも物語を語ることは できない。これは驚くべきことだと思う。人 間はそこまで特権的な生き物なのだ。物語の 代わりにアートと言ってもよい。あるいは善 意を持って生き続けることと言ってもよい。 そのような巨大な善意の前では、悪とか死は とるに足らないものになる。
 終わることのない物語を語り続けるという ことは、そんな人間の広大な可能性を示唆す るとてつもない営みなのだと思う。物語を語 るひとは、人間が不死であることを自覚しな がらこの短い人生を生きることができる。生 前の栗本薫さんはその苦しみと喜びをよく知 っていたのだろうと私は思う。そうでなけれ ば「どうして物語に終わりがあるのですかね 」という問いを発することはできないのでは ないか。物語を語るひとも物語を生きるひと も永遠を生き続けるのである。
 遅まきながらそれに気づいてみると、私は 今までずいぶんつまらない勘違いを続けてき たように思う。肉体は滅びるけれど人間は死 なない。人生はこの宇宙と等価である。それ が分かってしまえば、つまらないことでいち いち気分を悪くする必要は無くなる。時が過 ぎてゆくことに追われる必要も無ければ追憶 におびやかされることも無い。私の目の前を 通り過ぎてゆく景色を写真に収め、ひそやか な自由を生き続ければよい。
 そして、その限りにおいて、この肉体はそ う簡単に衰えてしまうものではない、という ことも納得できる。栗本薫さんには遠く及ば ないにしても、負荷をかけて使いこんでゆけ ば相当のことができるはずである。それが分 かれば、後は肉体を通して私は宇宙の声を聴 くようにつとめるだけである。そして、与え られたこの肉体を使い切った時、それは滅び るというよりも穏やかに自然に帰ってゆくの だろう。余談ながら、個体の死は高等な生物 が進化の果てに獲得した特殊な機能なのだ、 という見解を聞いたこともある。
 もはや、つまらないことでいちいち気分を 悪くしているわけにはゆかない。それを呼び こんでしまう繊細な情緒というものは、もし かしたら肉体や精神を曇らせてむしばんでし まう甘い毒なのかもしれない。それを拒んだ ところに成り立つ優しく強靱で自然な人生は 、まさに終わりの無い「始まりの物語」にな るのだろう。


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