尾崎翠、ふたたび

河出書房新社から尾崎翠(おさき・みどり )の特集本が出た。これは、手軽に読める「 道の手帖」シリーズのひとつで、彼女に縁の 深いひとやその作品をふたたび世に送り出す のに尽力されたひとの文章が収められていて 、私としても読んでいてとても嬉しい。
 この本を手にして以来、私はまるで生まれ た寝床から取ってきた布切れをあてがわれた 仔犬のように、毎晩安らかに眠れるのである 。尾崎翠が残した文章と彼女の人生をいとお しむひとが少なからずこの世に存在する、と いうことが私を本当に穏やかな気持ちにして くれる。もちろん、私にしてみれば「これは どうかな」という意見もこの本には少し載せ られているけれど、彼女の作品も、また尾崎 翠本人も、多様な見解を許容するふところの 深さを備えていると私は思っているのでこれ でも良いのだろう。
 尾崎翠の作品と同じように、いちどに読ん でしまうのがとても惜しいので、私は極上の ブランデーをなめるように本当に少しずつこ の本を読んでいる。その途中でこの文章を書 いているのだけれど、実は尾崎翠について今 の私はあまり書く気になれないのだ。
 書き始めると、とめどなく書きたいことが あふれてきて収まりがつかなくなるような気 がするし、私が感じていることは、この本に 収められている様々な書き手がもう言い尽く しているようにも思える。それでもその魅力 がいささかも衰えないところが尾崎翠の奥深 さと優しさなのだけれど、その魅力にとりつ かれた少数の人間は、まるで彼女の作中人物 のように片恋をしてその世界に住み続けるこ とになる。彼女の「作中人物」には苔やおた まじゃくしやピアノの音色といった人間以外 の生物や無生物までもが含まれる。それがと てもいとおしい。
 今思いついたのだけれど、尾崎翠の魔術と は、たくさんの読者を獲得する力ではなくて 、微妙に意見の異なる愛読者のひとりひとり を、その作品世界のかけがえない一員にして しまう不思議な力なのかもしれない。文学者 に限らず、それができる作家はそうたくさん はいないだろう。そんな、様々な傾向を持ち 合わせた尾崎翠の愛読者たちは、まさに「第 七官界彷徨」に登場する、恋を始めた苔の群 れに似ている。私もその一員であることに深 い安らぎをおぼえるのである。自由というも のの限りない優しさと厳しさを尾崎翠はよく 知っていたのだろう。
 尾崎翠を読むよろこび、そして彼女の故郷 である鳥取の岩井温泉を訪れた時の安らぎと 大切な方との出会い、彼女の墓参でふと流し た暖かい涙、その全ては私の大切な財産であ る。その、大切な方とかわしたお話のおかげ で、私は尾崎翠の息づかいのようなものをい くらか知っている。それは他のひとにはよく 理解できないことだろうと思う。こんな気持 ちは恋愛感情以外の何物でもなかろう。尾崎 翠についてあまり語りたくない、という私の 思いは、要するに、本当に好きだった恋人に ついて語りたくない、という気持ちとまった く同じなのである。
 そして、かけがえの無い大切な恋人は、私 の思いこみから自由であるべきだと思うので 、やはり私にはもう書くことはあまり無い、 ということになってしまう。私のもうひとつ の大切な小説、モーリス・ブランショの「死 の宣告」にもそんな一節があったような気が する。あとは愛読者のひとりとして、彼女と その作品をいとおしみ続けるだけである。
 それでも、いくつか私も述べてみたい感想 がある。この特集本「尾崎翠」に収められた 文章の中で、木村カナという未知のひとが書 いたコラムを私はいちばん面白く読むことが できた。その中に、私の最愛のマンガ家であ る坂田靖子の名前が書かれていたのがとても 嬉しかった。坂田靖子も、あまりその魅力を 語る気になれない、私の大切な作家だからだ 。坂田靖子も尾崎翠のように、少数の読者を 深く深く魅了する作家だと私は思う。その魅 力の質も確かにどこかしら似ている。
 そして、蜂飼耳という未知の詩人が書いた 「革新的なたどたどしさ」という文章も面白 かった。私に言わせれば、その印象はセロニ アス・モンクやハービー・ニコルズのピアノ と同じである。マイナーで、少数のひとをひ きつけるに過ぎないのだけれど、そこには今 まで誰も気づくことができなかった普遍と安 らぎがある。
 そんな、普遍的であってもマイナーな作家 とつきあうには、読者にも礼儀が求められる のだと思う。私としては尾崎翠はこれ以上、 変にメジャーになってほしくない。彼女は孤 独なままでよいと思う。尾崎翠の筋金入りの 優しさがそれを許さないだろうとは思うけれ ど、いちばん危ないのは、華やかに彼女を持 ち上げたがる若い女性作家連中ではないだろ うか。もちろん、尾崎翠に匹敵する文章を書 ける作家がその中にいるとは私には思えない 。尾崎翠の厳しい孤独を尊重するだけの覚悟 が彼女たちにあるだろうか。しかし、そんな 作家たちの言動が尾崎翠の新しい愛読者を拓 いてくれるのも確かなのだろう。
 尾崎翠のとてつもない優しさを信頼する私 としては、唐突ではあるけれどここでマイル ス・デイヴィスの次の発言を思い出す。「誰 が俺のレコードを買おうと気にしない。ただ 俺が死んだ時、黒人の仲間が俺のことを覚え ていてくれるように、黒人の仲間にもレコー ドがいきわたってりゃいいんだ」。この発言 の「黒人」を「マイナーな愛読者」に置き換 えることが許されるのなら、作家と愛読者の 関係をこれほどうまく言い当てた言葉を私は 他に知らない。余談ながら、ジャズの帝王と 呼ばれたマイルスだって実はマイナーな音楽 家だったかもしれない。
 これを引っくりかえせば、これほどに強靱 な魅力を持った尾崎翠は、すでに充分にメジ ャーな作家ではないのだろうか。ならば、愛 読者が少しずつ増えることを願いながら、そ れぞれが尾崎翠をいとおしみ続ければよいの だろう。この特集本「尾崎翠」がその貴重な 手掛かりになるのは確かである。
 ところで、愛読者とは、その作家や作品に 出会うことによって、自分の人生が根本的に 変わってしまったひとのことを言うはずであ る。文筆家に限らず、作家を名乗る者が、そ の覚悟も無いままに軽々しく「尾崎翠の影響 を受けた」なんてことを言ってほしくないと 私は思う。


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