桜咲く

今年も北国には遅い春がやって来て、町の 桜はもう散ってしまったけれど、これを書い ている連休明けになっても、このへんの山あ いの桜はまだ散らずに咲き続けている。今年 は特に気温が低いので、開花期が町よりもか なり長くなるのは確かみたいだ。
 ひなびた温泉につかりながら、その窓から 間近の山はだに咲く桜をながめていると、桜 の花があまり好きでない私でも、確かにこれ は美しいと思う。湯船の中で、遅い春がやっ て来たことに私はようやく安心する。
 しかし、桜の花のあの色の淡さはどうにも 不自然で、あまりにも人工的に思えて私は好 きになれない。町であれ山であれ、それが周 りの景色と調和しているようにも私には思え ない。変なたとえだとは思うけれど、桜の花 の美しさは私にメイプルソープの写真を思わ せる。透明で美しいけれど、金属的で人工的 で不自然であり、それがたまらない魅力にな っている。そのへんがよく似ている。メイプ ルソープは桜の花を実際に見たことがあった のだろうか。もしも彼に桜を撮る機会があっ たらどんな写真を生み出していたのだろうか 。考え始めるとぞくぞくする。日本人の中で も、桜の花をそんな危うさとともに愛でるこ とができるひとと彼の間には、もしかしたら 共通する何物かがあるのかもしれない。
 詳しくは知らないけれど、今、日本中で咲 き誇っているソメイヨシノは江戸時代以降に 広まった品種だと言うし、その樹勢は百年も 持たないものらしい。これが一斉に咲くのも 、ソメイヨシノが人工的に作り出されて、種 子で増えることができない品種だからだ、と いう話を聞いたことがある。ならば、今の日 本の桜の美しさの大部分はそもそも作為的な ものと言ってよいのかもしれない。あまり関 係無いことかもしれないけれど、私は幼い頃 からヤマザクラやサクランボの花は好きだっ た。
 日本人は千年以上も昔から桜の花の美しさ を愛でて、それを美術や文学や音楽の中に表 現してきたけれど、今咲き誇っているソメイ ヨシノが比較的新しい花であるのならば、そ れ以前の日本人が桜について抱いていた印象 は、我々のそれとはかなり異なっていたので はないか、という気がしてくる。少なくとも 今、目の前で咲いている桜の花の美しさは日 本の伝統に根ざしているのだ、と安易に思い こむことは慎むべきであるように私には思え る。その、伝統的な感受性でさえ百年や千年 の単位でながめれば大きく変動しているはず なのだ。
 だから「久方の光のどけき春の日にしづ心 なく花の散るらむ」という有名な短歌にして も、我々がソメイヨシノの並木の下で受ける 感慨とはかなり別のものを表現しているのか もしれない。そんなふうに考えてみるのも面 白い。
 繰り返しになるけれど、我々が不動のもの と思いがちな伝統にせよ感受性にせよ、それ を支える言語にせよ、それらは対立をはらみ ながらいつのまにか大きな変貌をとげてゆく ものらしい。そう考えてみると、ソメイヨシ ノの花にメイプルソープを思い出してしまう 私の思いこみも許されるのかもしれない。
 そんな、咲き誇る桜に誘われてささやかな 旅に出ると、桜並木の下にある、その地方の 小さな民俗資料館に私は寄ってみたりする。 すると、日本の田舎に電気が通ってからまだ 百年くらいしか経っていない、といったこと が分かってきたりする。そして、そこに展示 されている百年くらい昔の文書も私はもう読 み下すことができない。
 たった百年、せいぜい三世代か四世代の間 に世の中は、そして言語はこれほど変わって しまうのだろうか、と私は思う。それでも、 いくら古いものであっても我々とかけ離れた 遠い国のひとが遺したものであっても、我々 に感動を与えてくれるものはたくさん存在す る。我々の方にいくらかの誤解や思いこみが あるとしても、それをわきまえたうえでそん な古典を愛するのはかけがえの無い喜びにな る。
 ならば、我々はもっと厳しく、あるいは謙 虚に今を生きてもよいのではないか、という 気がする。五年も経たないうちに忘れ去られ てゆくようなものをこんなにたくさん世の中 にたれ流さなくともよいではないか、と私は 思う。資源をむだ遣いしてニセモノを広める こともそろそろやめにしたら、と言いたくな る。ブランショだったかカフカが言ったよう に「目立たずに続けられるべきこと」をひと りひとりがもっと大切にしてほしいと私は思 う。凡人が天才にせまるにはそれしか方法が 無いからだ。すぐに忘れ去られてしまうもの を世の中にたれ流していると、あっと言う間 にとりかえしのつかない荒廃がやって来る。 そんなものを私はもう見たくない。
 …温泉につかりながら咲き誇る桜を見てこ んなことを考える私は、なんのかんのと言っ ても日本人の思考に沿って生きているのかも しれない。そんな私の中にある日本人のパタ ーンのようなものを、もう少し具体的に、手 に取るようにながめてみたい、という気がし ている。伝統と革新、あるいは空騒ぎと没落 、そんなことをぼんやり考えるのに、今の日 本はふさわしい季節のように思える。そして 、今年の春はいつまでも寒いけれど、緑が美 しく映える初夏がすぐそこまで来ているのも 確かである。季節が変わればうっとうしい気 持ちもしばらく遠ざかってゆく。それが待ち 遠しい。


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