奇跡が起こる場所

以前、私は近所の図書館から竹下節子著「 奇跡の泉ルルドへ」という本を借りてきて読 んだことがあった。
 よく知られているとおり、ルルドはスペイ ン国境に近いフランス南部、ピレネー山脈の ふもとにある小さな町のことで、残念ながら 私はまだ行ったことが無いけれど、そこで湧 き出る泉が、不治の病人をしばしば奇跡的に 治癒してしまうことで知られている。
 一八五八年、ルルド在住の貧しい少女ベル ナデッタが町の郊外で聖母マリアの出現を目 撃した。その導きで発見した泉に病気を癒す 力があることがしだいに知られるようになり 、ルルドは救いを求めるひとが集うキリスト 教の聖地として有名になっていった、とのこ とである。しかし、その泉の水は科学的に分 析してみても特別な成分は何ら含まれていな いそうだし、キリスト教徒以外のひとにもそ の「奇跡」は起こることがあるらしい。
 私は今、エリザベート・クラヴリというひ とが書いた「ルルドの奇跡」という本を(も ちろん翻訳で)読んでいるのだけれど、この 本にはキリスト教の聖人となったベルナデッ タの修道女姿の写真がたくさん載せられてい る。当時の、そして現在のルルドを写した写 真も載せられている。当時のルルドのひとび とがいかに貧しかったか、ということもそこ に記されている。その上で、私が以前フラン スに旅した時に買った「地球の歩き方」のル ルドの項をもう一度読んでみると、この山あ いの小さな町の気配を少しは想像できるよう な気がしてくる。そこは、不思議に気持ちが 落ちつく懐かしい場所なのだろう、という勝 手な予感が私にはある。
 この、あまり話題にのぼることも無い山あ いの小さな町が私の興味を引いているのは、 その不思議な「奇跡」とその気配の他にも理 由がある。それは、ルルドのとなり町のタル ブに私の最愛の詩人、ロートレアモン伯爵こ とイジドール・デュカスの実家があった、と いうささやかな事実による。
 豊崎光一訳の「ロートレアモン伯爵 イジ ドール・デュカス全集」の巻末に載せられて いる年譜には、一八五八年のルルドの奇跡の 発端が記されている。この年、デュカス少年 は父親の移民先の南米ウルグアイの首都モン テヴィデオに住んでいるのだけれど、その翌 年、彼は父親の方針に従ってひとりで大西洋 を渡って両親(母親はすでに亡くなっている )の故郷であるタルブの高等中学校に入学し ている。そこでデュカス少年は苛酷な寄宿舎 生活を体験することになるのだが、大西洋に 向かって開かれたモンテヴィデオで生まれた 彼にとって、両親の実家がある山の町に住む のは初めてである。その気配を呼吸しながら 、デュカス少年もルルドの奇跡について何か しら耳にしていたはずである。
 タルブは「地球の歩き方」にも出ていない 小さな町だけれど、以前、NHKのフランス 語講座のテキストに現在のタルブを写した写 真が載せられていたのを私は憶えている。そ こは、ルルドとは少し雰囲気が違う小さな山 の町、という印象があった。
 ロートレアモン伯爵の筆名で残された散文 詩「マルドロールの歌」は、その後、主にパ リで書かれたということだけれど、そこにあ からさまに顔を出さない彼のふたつの故郷、 モンテヴィデオとタルブが「マルドロールの 歌」の独特の調子に色濃く影を落としている のは間違い無いだろう。モンテヴィデオ、タ ルブ、パリというまったく性格の違う三つの 町をデュカスはさまよい続けていたのだと私 は思う。それを何とか形にすることが彼の生 きる目的だったはずだ。モンテヴィデオの気 配は、その対岸の町を写した森山大道さんの 写真集「ブエノスアイレス」やボルヘスの短 編をもとに少し想像することができるけれど 、私がパリを訪れてから十年以上が過ぎて、 今はタルブやルルドの気配が気になるように なってきた。
 それは、この十年の間に、不思議に懐かし い独特の気配を持った場所を私がいくつか訪 れたからだと思う。たとえば尾崎翠の故郷で ある鳥取の岩井温泉、宮沢賢治がひとりで暮 らしていた花巻市の旧居跡、空海と南方熊楠 ゆかりの高野山、ロートレアモンと並び称さ れる天才詩人ランボーの故郷シャルルヴィル ・メジエール。そこはいずれも人情に厚い小 さな町で、深い森が持つうっそうとした雰囲 気と同じ質の気配がたちこめる、とても懐か しい場所だったのだ。私がそのそばに十年住 んだ長野県上田市の別所温泉もそうかもしれ ない。それとは少し質が違うけれど、下北半 島の恐山のことも私は思い出しておきたい。 恐山には素晴らしい温泉が湧き出ていて、そ の静かな気配と悲しみとひとびとの祈りが相 まって、ここならルルドのような奇跡が起き ても不思議ではないな、と私は感じていた。 あの、温泉につかりながら眺めた恐山の夜空 を私は忘れることができない。
 静かな自然に恵まれてはいても、決して経 済的には豊かとは言えない小さな場所で、深 い悲しみと苦しみを抱えた天才が、ある種の 奇跡を呼び起こすことがある。
 それは文学や芸術の形をとることもあるし 、ひとびとを治癒して安らぎを与える祈りの 形をとることもある。いずれにしても、それ は科学では充分に説明できないことである。 文学や芸術を科学で説明できないことは誰も が承知しているのに、ルルドや高野山や恐山 の奇跡を科学で説明できないことにいらだつ 連中が多いのはどうしてなのだろう。それこ そが科学の傲慢であるし、南伸坊の名言を借 りれば「合理主義の迷信」ということになる だろう。現象を素直に観察することこそ真に 科学的な態度であるはずなのに、それができ ずにうろたえている連中は、あまり知恵があ りそうには見えない。聖人となったルルドの 少女ベルナデッタの方が、そんな学者たちよ りもずっと賢い容貌になっているのだ。
 いずれにせよ、この世には懐かしさと悲し みを帯びた奇跡が起こることがある。それを 呼び込むことができる天才が現れることがあ る。それを可能にする小さな場所がある。こ れはとても素晴らしいことなのだと私は思う 。つまり、我々が持ち合わせている小賢しい 常識だけが、この世のすべてではないはずな のだ。それとはまったく隔絶した論理がこの 世には存在する。しかし、今の我々はそれを 「奇跡」と呼ぶことしかできない。それを明 らかにすることは天才にしかできない。しか し、我々も今持ち合わせている論理と感覚を 磨いてゆけば、その気配を感じることはでき る。謙虚さを忘れることが無ければ、その恩 恵を受けることも可能になる。
 それができれば、我々は何があっても希望 を失わずに生きてゆけるのだと私は思う。ど うも今の我々は、狭量で頭でっかちになり過 ぎているのではないか。論理と感覚を磨くこ とを怠っているのではないか。もしかしたら 、救いを求める資格さえ失いかけているので はないか。僣越ではあるけれど、私にはそん な思いがある。


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