私の青空

去年の正月に載せた私の文章に、石川淳の 「元日や机上に荘子事もなし」という句を引 用しておいたけれど、今年の始めにもこの句 は実にふさわしいように思える。質素に片づ けられた机の上に「荘子」が置いてあって、 窓の外には冬晴れの青空が広がっている。そ んな部屋を私は想像する。盛岡ではこの正月 は大雪だったけれど、それもまた良い。外の 世界がいかに荒れていようとも「荘子」には 関係無いことであって、その窓の外にはすさ まじい荒天をはらんだ穏やかな青空が広がっ ているのである。
 実際、吹雪の中に青空を望み、青空の中に 吹雪を見るくらいの眼が無ければ今を生きて ゆくのは難しいように私には思える。見た目 と内実がこれほどかけ離れた世の中は、少な くともここ数十年の間には無かったのではな いか。年末に雪かきをしたり、年が明けてか ら寒さで明け方に目覚めてしまった時、私は そんなことを考えた。
 しかし、今、予想外のことは世の中に何ひ とつとして起こってはいない、という感覚が 私にはある。今、起こっている問題のすべて はずっと前から明らかに予測できたことであ って、ある法則に従って世の中は崩壊を続け ているだけではないか、という気がする。予 想外のことが起こっていない、という意味で は今の世の中は天下泰平以外の何物でもない 、と考えてもよいかもしれない。少なくとも 、それは「荘子」の雄大な混沌と秩序の足元 にも及ぶものではない。覚悟を決めてしまえ ば何も恐れるほどのことはなかろう。
 ただ、今の世の中はとんでもなくおせっか いだ、とは言えると思う。それほどの不平も 無く日々をそれなりに幸せに過ごしている人 間の耳元で「おまえは実はこんなに不幸なの だ」とささやきかける連中があとを絶たない 。大きなお世話とはまさにこのことを言うの だが、ささやかに幸せに生きている人間の不 安と欲望をあおってお金を巻き上げてやろう 、というのが資本主義の断末魔の手口である 。そんな日には、ささやかながらも美味しい 料理を作ってお腹を満たして早く寝るに限る 。冷えこむ夜に考え事をしてもろくなことは 無いし、新聞やテレビを見るのは論外である 。ひとの不安をあおって儲けるのは新興宗教 の常套手段だけれど、今や世の中全体がいか がわしい新興宗教になってしまったのかもし れない。もはや逃げ場は「荘子」のような古 典の中にしか無いのだろうか。
 それでも、世の中が近いうちに本当に破局 を迎える、と断言する本がちらほら目につく ようになったのは良いことだと私は思う。経 済も文化も環境も、もはやどうにもならない ところまで追いつめられているのに、見て見 ぬふりをして通りすぎる連中があまりにも多 い。その代償として、彼らは心身の病を深め ている。ガダルカナルやインパールといった 太平洋戦争の末期とこれはもしかしたら似て いるのだろうか。それは私には判らないこと だけれど、その当時、石川淳のように物の道 理が分かったひとは、息をひそめて生き延び ながら、それぞれの問題を深く探究していた ことは私も知っている。
 要するに、かりそめの豊かさに惑わされて はいけないのだと私は思う。その虚飾から免 れているだけ貧乏人は幸せなのかもしれない 。時代の不安を嫌でも直視してしまうのは貧 乏人の特権かもしれないのだ。どんなに深刻 な不安であっても、それを直視してしまえば それはそれ以上大きくなるものではない。そ れを私はよく知っている。そして、その代償 として、すべてのものが実にクリアに見えて くる。私は欲望ではなくて希望を持つことが できる。
 余計な欲を持たなければ、今の時代はそれ なりに楽しく健康に生きてゆける。もちろん 自閉的になる必要は無い。そして、自分で思 うほどひとは孤独ではない。それを誰も言い 出さないのが私にはとても不思議だ。
 もう二十年以上前、石川淳が亡くなった時 に田中優子先生が書いた追悼文を私はこれま で折りにふれて読み返してきた。「日々、何 を心配するのだろう。何を恐れるのだろう。 何にとらわれ、何のために自制するのだろう 。…」この文章は「救いとしての石川淳」と 題されている。私がこの文章を初めて読んだ のは、大学を卒業して初めて会社に勤めた時 だった。その頃はバブルの絶頂期だったけれ ど、この文章が私に伝えてくる思いはその頃 も今も変わることが無い。厳しさを踏まえた うえで、自由に、アナーキーに長い人生を生 きることは可能なのだ、ということをその時 私は学んだ。そして今、時代は石川淳が無頼 の貧困生活を送りながら、あの名作短編を書 き継いでいた戦中戦後の混乱期に近づいてい る。石川淳にせよ、不遜ながら私にせよ、今 の時代のこの暗さは四十代という人生の転換 期に実はふさわしいのかもしれない。
 最後に、石川淳と同年に生まれたデューク ・エリントンの言葉を思い出しておきたい。 人種差別について問われて、エリントンはた しか「不平を言うエネルギーはすべて音楽に 向ける」と答えていたと思う。この言葉にど れだけの悔しさがこめられているか、それを 私はいつも想像できるようでいたいと思う。 石川淳やエリントンには及びもつかないけれ ど、私も吹雪と青空をともに見つめながら歩 み続けたい。


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