アローン・アゲイン

三月十一日の午後、私が住んでいる岩手県 盛岡市にも激しい地震がやってきた。私はた またまその日は仕事を休んで盛岡駅の裏にあ る県立図書館にいた。カウンターで少し古い ジャン・ジュネの伝記を受け取って、本棚か ら離れた椅子に腰掛けてそれを読み始めたと ころで強い揺れがやってきた。図書館の本棚 こそ倒れなかったけれど、本棚の高いところ にあった本はあらかた床に落ちてしまってす ぐに停電がやってくる。しかし、図書館のお 姉様方、つまり職員の女性たちは極めて冷静 に対応した。彼女たちの声に従って、私はそ ばにやってきた品の良い中年の女性に声をか けて椅子に座らせて一緒に机の下にもぐりこ む。幸い天井から物が落ちてくることは無か った。大きな揺れが収まった後、全員を誘導 して無事に避難させたお姉様方の振る舞いに 私はいたく感嘆した。
 その後、盛岡も数日は停電や断水が続いた けれど、町が壊されたわけではなかったので 、私は今までどおり仕事をして生活を続けて いる。私の身内や友人知人、そして被災地に 住んでいる音信不通だった古い恋人に至るま で全員が無事だった。本当にありがたいこと である。しかし、職場では身内が津波にさら われて行方不明になってしまった方が何人か おられる。深い悲しみと不安を抱えながら、 それでもその方々はひと助けに尽力している 。その前で私は本当に無力である。無力な人 間は、せめて笑顔を絶やさず元気に生き続け るしかない。ささやかな職務を今までどおり 果たし続けるしかないのである。そして、そ れを支える心身の健康がこんな時にいかに大 切なものなのか、私は思い知った。
 メディアには悲しく辛いニュースがあふれ 、FM放送でさえしばらくの間は音楽を流す のを止めてしまった。こんな時こそ本物の音 楽が必要なのに、なぜそれを流さないのか。 三月十一日の晩、停電のために突然現れた美 しい星空のもとで私はそんなことを考えてい た。暗闇の中、ろうそくのささやかな明かり を見つめて激しい余震を感じながら、私はい ろんなことを考えていたように思う。
 それでも、十三日の夕方までには電気も水 道も復旧したので、十四日の月曜日に私は普 段どおり仕事に出掛けた。ただ、ガソリンが 手に入りにくくなったので、通勤のために私 は今までにも増してよく歩くようになった。 歩きながら、無事だったひとの声を思い出し て、私はやはりいろんなことを考えている。 涙を流しながら歩いていたりする。切ないの か嬉しいのかよく判らない。
 その道すがら、何年も何年も分からなかっ たことが、まさに糸口を解きほぐすように納 得できる時がある。結局、知人のひとりが言 った「生かされている」という言葉にすべて が集約されてゆく。そして、私がいかに幸せ な男であるかが改めて納得できる。この、幸 せであるということは、これから私に何か為 すべきことがある、ということを意味してい る。それが何であるか、その答えは早春の景 色の中にすでに現れているようにも思える。 しかし、いまだに非常時が続いているので、 私は予感するばかりでそれを正確に把握する 力が無い。私にはもしかしたらさらなる試練 と喜びが必要なのかもしれない。
 三月の終わりから四月の始めにかけて、私 は仕事の用事で何度か三陸沿岸の町を訪れた 。その時、私は津波のために廃墟となった町 並みを初めて目の当たりにした。言うまでも 無いことだけれど、水や泥がひとまず引いた 海辺の町に立つと、テレビや写真で見るのと はまったく違う衝撃を受ける。船が陸に駆け 上がり、建物の鉄骨がねじまがり、辛うじて 残った建物の一階には何も残されてはいない 。それでもひとや車の通り道の瓦礫はひとび との必死の努力によって片づけられている。 それが道端にうずたかく積まれている。そこ に、沿岸の春の光が降りそそいでいる。
 生活のご苦労もさることながら、この景色 の中で生き続けておられる方々の気持ちの奥 深くがどれだけ傷ついて揺れているか、私に も少しは想像することができる。そこから帰 ってきてから思い出すひとびとの笑顔が切な い。
 余震はなかなか収まらないけれど、そして 原子力発電所の事故は終息しないけれど、少 しずつ世の中は「復興」に向けて動きだして いる。悲しみや苦しみの中で、人間の強さや 善意を実感させられることもたくさんある。 今までの無用なぜいたくを反省する声も聞か れないわけではない。しかし、こんな酷なこ とは言いたくないけれど、これだけの大災害 が起こっても、我々の思い上がりは根本的に は改まっていないのではないか、という疑念 を私は追い払うことができない。この思い上 がりが残っている限り、我々のもとにはさら なる試練がやってくるような気がする。
 どうしてこれ以上の悲しみや苦しみが必要 なのですか、と私の中にいる誰かが叫んでい る。それでも、それは近いうちに確実にやっ てくるのだろう。それが具体的に何なのか、 私には分からない。衣食住にかかわる具体的 なことなのか、もっと抽象的で始末におえな い精神的なことなのか、そのへんも私には分 からない。結局、今とはまったく別の狂気や 惨状が現れるのかもしれない。しかし、この 大災害を生き延びた我々は、そんな新たな試 練を乗り越えなければならないだろう。
 村上春樹が阪神大震災の後に書いた短編集 「神の子どもたちはみな踊る」を私はぱらぱ らと読み返している。その中の短編のひとつ は「でも、まだ始まったばかりなのよ」とい う言葉で終わっている。苦しみにせよ、ある いは喜びにせよ、今までとはまったく違う重 厚なものがこれから我々の前に現れるのだろ う。それは、今考えているよりもずっと長く 、原子力発電所の事故で汚染された大地に普 段の暮らしが戻ってくるくらいの時間をかけ て、我々のもとを通り過ぎるのかもしれない 。中世の戦国時代のような百年も続く大乱は 、今始まったばかりなのかもしれない。
 ただ、苦しみだけでなくて、そこにはアナ ーキーな喜びも訪れるだろう。我々はそれを 存分に味わうために、より優しく繊細に、そ して狂おしいくらい猛々しくなって生きてゆ くのだと思う。それが、この大乱を生き延び る条件になるだろうと私は予感している。
 「神の子どもたちはみな踊る」に収められ ている別の短編には「ある意味では、あの地 震を引き起こしたのは私だったのだ」という 一節がある。我々の、あるいは私ひとりの、 無言の叫びをもってしても届かなかった狂お しい愛しさが、あるいは恥ずかしさのあまり 飼い殺しにしてきた深い憎しみが、この惨状 を呼び寄せてしまったのかもしれない。今、 こんなに心が痛む理由は、それ以外に考えら れないではないか。我々は、今までの平凡な 日常を信頼しすぎていたように思う。あるい は、この地震を境にして、夢と現実が逆転し ていると言うべきか。不思議なことに、今ま でとはまるで別人のように生気にあふれて存 分に生きている私がここにいる。今、鏡に映 る自分を見るたびにそう思う。それは、あの ひとのおかげなのかもしれないけれど。
 そして、瀬戸内寂聴さんが説かれる「慈愛 」のことを私は考えている。それは私の意思 とは無関係に、まさに泉のように私の中から 無限に湧き出てくる慈しみの気持ちのことで ある。無意識というよりも、地震の震源より もはるかに深いところにある光と闇の中から それはやって来る。この「慈愛」は目には見 えないけれど、たくさんのひとびとの中から 我々の意思とは無関係に果てしなく湧き出て きて、揺れる大地も津波の廃墟も、傷ついて 苦しむ我々の気持ちでさえも、優しく穏やか に暖かく包み込んでゆくだろう。それを「再 生」と言うのかもしれない。


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