長くて曲がりくねった道

以前、親鸞上人が七百年前の昔に九十歳の人生を生きたということを書いたけれど、この「東京光画館」のオーナーであるやわらさんがペンネームに使っている葛飾北斎も江戸時代後期に九十年の生涯を送っている。私は浮世絵のことはほとんど何も知らないので、今までそれを気にしたことが無かったのだけれど、今になってようやく北斎の伝記を近所の図書館から借りてきて読み始めている。
 北斎の絵と言えば、有名な赤富士とか砕け散る波の絵くらいしか記憶に無いのが我ながら情けないけれど、思い出してみると、私の少年時代、永谷園のお茶漬けの素には浮世絵のカードがおまけに付いてきていて、それを集めていたのが私の浮世絵との出会いだったと思う。だから、少年時代の私はそれとは知らずに北斎の主要な作品を目にしていたはずである。あのカードはなかなか綺麗なお宝だった。私は永谷園の粋なはからいに感謝しなければならない。
 その後、私が赤富士や波の絵を改めて発見したのはたしか少年向けの地学の図鑑だった。このふたつの絵が図鑑の中に大きく紹介されていて、それは科学的にも正確な描写がなされている、というような解説がついていたと私は記憶している。意外な道をたどって、少年だった私が素晴らしい古典に接していたことに今さらながら驚いている。大げさな言い方になるけれど、そんな出会いが私を写真に導いてくれた一因になっているのだとすればとても嬉しい。
 さらに余談を続けるならば、北斎の他に、切手のカタログで見た写楽の作品が何も知らない少年だった私にもとても魅力的だった。
 それからずいぶん時間を経て三十歳を過ぎてから、私は東京で開かれた写楽の展覧会をはるばる見に行った。その時の、写楽の作品につきまとう妖気に接した衝撃は今も忘れられない。写楽の本物をあれだけたくさん見ることができたのは最高の写真の勉強になった。あの妖気は画集を見ていただけでは絶対に味わうことができなかった。画集と本物の印象があれほど異なる画家というのも私は他に思い出すことができない。どういうわけか、一緒に展示されていた他の浮世絵師の作品は、画集で見た印象とそれほど違わなかったからだ。この違いは何だろうか。いまだによく分からない。そして、写真家でこんな激しい落差を感じさせるのはロバート・キャパとダイアン・アーバスだと私は思う。その妖気は写真集では絶対に伝わってこないのだ。このふたりのプリントを見ることができたのもとても幸せなことだった。
 ・・・話がどう進んでゆくのか分からなくなってきたけれど、活動した期間が極めて短くて、その正体さえ近年まで不明だった写楽に比べて、北斎はピカソを思わせるような長い人生を送っている。もちろん、その人生は決して安楽なものではなかったらしいけれど、彼は生涯にわたってひたすら制作を続けている。北斎が晩年に画狂老人と自称したのもうなずけるところだと思う。そして、九十歳で亡くなる直前、芸術家としての完成のためにあと五年十年の寿命を願ったという執念も素晴らしい。
 北斎の作品や人生はこれから時間をかけて味わうことになると思うけれど、その入り口にたどり着いた今の私としては、人生は長い、という当たり前のことをまず確認しておきたい。しぶとく努力を続けていれば、たとえ北斎のような天才でなくともその中で何らかの変転や精進を示すことはできるはずなのだ。それが同じ場所をぐるぐる周ることに過ぎないのだとしても、そこで我々は永遠の快楽を生きることができる。無為に生きていれば、時はただ過ぎ去ってひとは老いてゆくばかりである。
 九十年百年の長寿に恵まれなくとも人生は長い。これは、ひと昔前までは私ごときが言うまでもないくらいに当たり前の常識だったはずである。いつから世の中がこんなにせっかちに、そして型にはまってしまったのだろう。そうではなくて、あっちにぶつかりこっちにぶつかりして、手探りで時間をかけて、誠実にわがままに生きてゆくのが人生ではなかったのか。そこに生きる歓びも生まれるのではないか。
 だから、たとえアンネ・フランクのように十五歳で非業の死を遂げてしまう人生であっても、それでも人生は長かったのではないか、と私は考える。十五年の人生を短いと思ってしまうのは、我々がその後の人生を知っているからであって、自分が十五歳の頃を思い出すことができるひとならば、それはそれで充分に長い人生だったと振り返ることができるのではないかと私は思うのだ。
 その、天から与えられた長い人生を、我々は勝手に短いとかはかないとか錯覚して空費しているだけではないのだろうか。繰り返しになるけれど、苦難と歓びに満ちた長い人生を引き受ける覚悟と体力があればひとは老けることが無い。それに目を向ける勇気が無いままに便利さと虚飾におぼれて、今の時代、我々はみんなで悪い夢をみているような気がする。
 「国中みんなでしびれてる」というのはもうずいぶん昔に流行ったクレイジーキャッツの歌だけれど、その頃は今のように六十歳を過ぎた男が市役所の窓口に火炎瓶を放り込むようなことはなかったし、公党の党首が、街頭演説で外国に拉致された女性を侮辱することも無かったと思う。つまり、今の世の中は若者や中年だけではなくて、年寄りまでもが狂っている。「国中みんなで狂ってる」と言うのが今はふさわしいだろう。
 そんなわけで、今、世の中の過半数の連中が救いがたいほど悪い夢をみて狂っているのならば、効率の悪い生き方をして正気を保っている私のような人間が、これからの長い人生を楽しくしたたかに生き抜くことは充分に可能なのではないか。そんな奇妙な自信がついてきた今日この頃である。
 どうやら人生は、不思議なところに希望がころがっているみたいだ。そんなわけで、ビートルズの歌にあった「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」をしたたかに歩み続けたいというのが私の願いである。さらにつけ加えるなら「喜びもそして悲しみも、笑顔で包んで抱きしめるの」というのは今井美樹の歌である。結局、ひとは自分で思うほど孤独ではないみたいだ。


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