洪水前夜

温暖化が進むと気候の変動が激しくなる、という話は以前にも私はどこかで聞いたことがあった。暑い時はやたらに暑く、寒い時はものすごく寒い。穏やかなその中間が無くなってしまって、何事も極端から極端に移行する。温暖化というのは単に気温が上がることではないらしい。
 私が住んでいる岩手県盛岡市では、お盆前に庭でオクラが採れるようになるのだけれど、盛岡でオクラが採れるなんて三十年前には考えられなかったと思う。盛岡ではお盆が過ぎると、もうTシャツを着ていられなくなるくらい涼しくなっていたのを私は憶えている。そんな土地でアフリカ原産のオクラが採れるわけが無い。ところが今は、夏になるとまるで熱帯のような気候が盛岡にもやって来る。梅雨明けが八月にずれこんで、その後も雨と湿気が多い天気が続いたあげく、とんでもない大雨が降ったりする。先日、「今まで経験したことが無い大雨」という警報が盛岡にも出たのだけれど、大水害とはこのようなものなのかと思い知らされるものすごい雨だった。これが温暖化とどんな関係にあるのか私には分からないけれど、ノアの大洪水はこんなふうに始まったのだろうか、と私は思ってみたりした。
 ところで、古代マヤ文明のこよみは二〇一二年で終わっているので、そこでこの世は滅びるのだ、という風説が流れたのは去年だった。なるほどこの異様な気候の変動はこの世の終わりを示しているのかもしれない。ただ、この世の終わりは一瞬でやって来るものではなくて、時間をかけてゆっくり訪れるものらしい。ならば、この世の終わりはいよいよ始まったのだ、それを止めるのはもう不可能なのだ、というのが正確なところかもしれない。
 環境も経済も文化も、もはやどうにもならないところにまで追い詰められているのに、世の中の大方の連中はそれを見て見ぬふりをして綺麗ごとを並べている。あるいは、バーチャルな世界に逃げこんで時間稼ぎをしている。そして、その欺瞞に耐えられないひとびとが次々に心身を病んで倒れてゆく。それはべつに今に始まったことではないのかもしれないけれど、その落差が耐え難いほど激しくなってきた、とは言えると思う。これはもはや地獄以外の何物でもなかろう。
 国の借金が、国民ひとり当たりに換算して八百万円を超えるというニュースがあった。まともな生活を続けた上で八百万円の借金を返せるひとが世の中にどれだけいるものなのか、考えなくとも分かることだと思うのだけれど、これを真剣に心配するひとの意見が世の中に紹介されることは無い。かつてのような経済成長はもはや期待できないのだから、このままバブルになって、それの破綻と同時に大恐慌になるしかもはや道は無いように私には思える。いったい、これからどうなるのだろう。こんな、しろうとの素朴な疑問にきちんと答えてくれるひとは誰もいない。私にはそれが不思議で仕方が無い。
 我々の欲望が肥大したあげく、経済にせよ科学技術にせよ、人間が作り出したものが人間の力を超えてしまって、もはや制御不能におちいっている。そんな文明の暴走は、資源の浪費によって支えられているのだけれど、それももはや行き止まりである。結局、資源が自由に使えなくなるところでこの文明は破綻し崩壊する。そのへんのところは、原子力発電所の事故を収束させられないところによく現れているのだけれど、それさえも見て見ぬふりをして、無かったことにしようとしているひとが世の中の過半数を占めるらしい。この前の選挙の結果を見ればそれが分かる。
 誰が号令をかけているわけでもないのに、大切なこと、火を見るよりも明らかなことが巧妙に隠されている。三十年近く前、ジャンボ旅客機が墜落した時にダッチロールという言葉が使われた。もはや制御不能となった飛行機が急上昇と急降下を繰り返すことだったと思う。もしかしたら、あれは三十年後の我々だったのだろうか。
 案外、断末魔というのはこんなふうに明るくて快適なものなのかもしれない。目隠しをしていればそれも可能になるというわけである。今の我々には未来を見通す度胸も無く、過去を振り返る勇気も無い。中世ヨーロッパの画家、ボスやブリューゲルの絵に描かれている愚か者の群れと大差は無かろう。 あるいは、今は太平洋戦争の末期に似ている、という考え方もできるだろう。兵隊も民間人もあれだけたくさん死んでしまって負けていても、日本が負けるということを公然と口にすることは禁じられて、負けるばかりの戦争がだらだらと続けられた。そのあげく、すべてが破綻して崩壊してしまっても、その責任を取るひとは誰もいなかった。
 しかし、太平洋戦争が始まった当初から、この戦争は負ける、と考えていたひとは軍人にも民間人にも少なからずいたのは確からしい。負けたって生きてゆけるのよ、と覚悟を決めていたひともいたと私は聞いている。
 いつの時代もそんな覚悟を決めて生きてゆくひとがいるのならば、ひとりひとりの人間の生命力をもう少し信頼してもよいのかもしれない、と私は思う。そうすれば、無用な心配を抱えこんで心身を病むことも無いし、虚飾に溺れて足元をすくわれることもなかろう。やたらに暑いのだけはどうにもならないけれど、お盆休みくらいは汗をかきながらのんびり過ごして余裕を取り戻したいものである。何か大事なものが見えてくるかもしれない。
 いずれにせよ、今はノアの大洪水の前夜のような時代なのだろう。あるいはソドムの町に溶岩が降ってくる前夜なのだろうか。
 ただ、私が見る限りでは、会社とか役所とかにきちんと所属している人間にはそんなあからさまなことが分からなくなる傾向があるように思う。頭の良し悪しとか有能無能とはそれは関係が無いようである。会社人間というのは、単に会社の仕事が忙しい連中のことではなくて、外の世界の「あたりまえ」が分からなくなってしまった連中を指すように私は思う。この期におよんで、会社や役所にしがみついている自分だけは安泰だと信じている連中が私にはまったく理解できない。彼らは、危機を自分の問題としてとらえることができないのだ。そんな連中が実は世間の過半数を占めるらしい。結局、それは大洪水を前にした愚か者の群れと同じではないか。
 それに反して、「この戦争は負ける」という冷たい覚悟を持ったひとが今、どれだけいるものなのだろうか。それとも、気候も含めて、こんな極端な世の中では、そんな想像力を持ち続けるのは困難なことなのだろうか。それは私にはよく分からない。繰り返しになるけれど、文明の自家中毒のあげく、早晩この時代は崩壊することになるのだろう。しかし、その後には厳しいながらも私のような人間には案外に楽しい世の中がやって来るのかもしれない。それを忘れずに、まずは心身の健康を保ちながら気楽に生きてゆきたいものである。要するに、正気を保って、しぶとく柔らかく生き延びる必要があるのだ。


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