研究の毒、写真の自由

三十歳の研究者が作成に成功したというSTAP細胞なるものの論文が物議をかもしている。発表から時間が経つほどにどんどんボロが出てくるので、もはやこの騒動について考えたり発言すること自体があまり稔りのあることのようには思われない。これは、酒の席での下品な話のネタにふさわしいくらいで、実際、この話題で職場の飲み会は大いに盛り上がって笑いが絶えなかった。
 その研究成果がどこまで本当なのか、もちろん私には判断がつかない。しかし、疑惑が指摘されてからこの研究者は今のところ公の場に姿を見せていないし、所属する研究所の会見にも彼女は出席することが無かった。自分の研究についてみずから釈明できないようではまずは研究者として失格のはずである。このことだけで、この研究は決定的に破綻したとみなされても仕方が無いだろう。
 毒が回る、とはこういうことなのだろうか。吉本隆明だったか、あらゆる職業には固有の毒がある、というようなことを語っていたけれど、これが研究というものの毒なのだろう。華やかだった最初の会見で、彼女は、若返りや人類の幸福のために研究を進めている、というようなことを言っていたと思うけれど、これこそが研究者の思い上がりかもしれない。
 それから、彼女の論文に載せられた写真に不自然な操作の跡があるらしいとか、データを改ざんした疑いが晴れないとか、論文の文章の一部が別の論文の引き写しではないかとかいろいろ言われている。
 それが本当だとしたら、その程度の論文でそんな大言壮語ができるということも、この研究者が毒にあたっていたことを示しているだろう。見ていて面白いと言えば面白い。研究者をとりまく環境の悪さがそれを誘発する、という都合のいい言い訳に私は耳をかたむけるつもりは無い。
 まったく関係ない話だけれど、ロートレアモン伯爵の散文詩「マルドロールの歌」には医学論文の無断引用や百科事典の丸写しが含まれていて、その試みが今では高く評価されているし、読んでいてそれがとても面白い。しかし、このことについて作者を非難するひとは誰もいない。
 そもそも、ロートレアモンなるペンネームも他人の小説の主人公の名の誤植らしいとのことである。STAP細胞の騒動をめぐって、科学と文学はずいぶん違うものだと私は馬鹿なことを考えていた。ただ、「マルドロールの歌」が多くのひとから正当な評価を受けるまで百年もの時間がかかっているのも確かである。
 それはともかくとして、彼女の論文に見られるという改ざんや無断引用を、周囲の連中は知らなかったのだろうか。私など足もとにも及ばないほど優秀な学者たちが集まる世界で、それに気づくひとが本当に誰もいなかったのだろうか。それが私には信じられない。そのへんのところが、例のゴーストライターの存在が発覚したいんちき作曲家の騒動に似ている。うすうす勘づいていた連中はたくさんいたんじゃないだろうか、そうだとすれば、怪しいのは彼女ひとりではないだろう、と私は下衆の勘ぐりをしてみるのである。
 釈明の記者会見で、研究所のトップでノーベル賞をもらった先生が、彼女を「未熟な若い研究者」とこき下ろしていたけれど、それでトップの責任が果たせているのだろうかとも私は思う。無責任体制は何も作曲業界や原子力業界だけではない、ということがまた明らかになったことになる。
 結局、私に言えることは、こんな事件を問題にするのであれば、今の世の中にこの程度のいんちきはいくらでもあふれているぞということだけだ。
 ロートレアモン伯爵が「マルドロールの歌」を書いた百数十年前より、今の時代は無断引用やデータの改ざんははるかに容易である。そのおかげで、それは今や文学の技法としても古くさくて使えない。今、他人や前任者の論文を丸写しにして、それでぬけぬけと給料をもらっている馬鹿者を私は知っている。あるいは、著名な全国紙にプロの作家が載せるエッセイが、他人の論考の引き写しであることも珍しくない。それを見て見ぬふりで通している連中に、今回の騒動をあげつらう資格があるのかどうか私は疑問に思う。
 科学に対する信頼、もっと正確に言えば科学という権威に対する信頼、その内幕を白日のもとにさらしておとしめた、という意味でこの事件はよかったと私は思っている。そうでもなければ、巨大化した科学の横暴はもはや止めようが無いだろう。原子力発電所の再稼動や輸出もなし崩しに進んでしまう。権威を疑う力、それを茶化して笑う力をわれわれは取り戻せるのだろうか。
 私自身は、先日来日して七十代にして圧倒的なパフォーマンスを披露したというローリング・ストーンズを励みにして、あんな素晴らしい不良のじじいになることを目標にして、したたかに生き続けたいと思うばかりである。
 誰かが言ったように、写真はもともと複写でしかないし、他人のふんどしで相撲を取る行為であり、オリジナリティも権威も原理的に存在しないのだから気楽なものである。それこそが写真家の幸せだと私は思う。  


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