まほろばのさと、ふたたび

政治の話はあまり書きたくないけれど、集団的自衛権とか憲法改正とか、今の総理大臣が押し通そうとしている政策にせめぎあう力が我々には不思議なくらい欠けているみたいだ。
 これを平和ぼけというのだろうが、いちばん平和ぼけの毒が回っているのは実はあの総理大臣であって、誰かが言っていたようにタカ派の平和ぼけほど恐ろしいものは無い、ということになると思う。
 あの男は自分の思い込みをごり押しして、それから後、世の中をどうしようと言うのだろう。それが私にはまるで分からない。どうやらあの男は国民の幸せや利益よりも自分の信念を優先してしまう空疎な政治家のようなので、後のことなど何も考えていないのかもしれない。結局、彼は自分のじいさんが果たせなかったことをやり遂げたい、それだけが願いの身勝手な御曹司であるように見える。公私混同もはなはだしくて迷惑これに過ぎるものは無い。
 そのじいさんにしても、総理大臣になる前の戦争中には何かの大臣を務めていたのだから、これをドイツに置き換えてみると、ヒトラーの部下で大臣を務めていた、たとえばシュペーアの孫が今、首相を務めているようなものだから、外国は最初から日本の今の総理大臣をまゆつばで見ているのは間違い無いところだろう。
 理由はどうあれ、戦争をしない、よその国の戦争にかかわらない、このことがどれだけ外国のひとびとから信頼され尊敬されることなのか、私はそれをよく知っている。私は大学で外国人留学生と親しくおつきあいしていたからだ。途上国の学生は、その気になればアメリカやヨーロッパに留学することもできたのに、なぜ英語もろくに通じない日本にやって来るのか。それは日本が第二次大戦の後は一切戦争をせずに、そして国として人種差別にかかわったことが無いからなのである。それが我々の最大の誇りであり武器である。いくらお金を積んでも、いくら軍備を整えても、あるいは憲法を変えても、この誇りと武器を得ることはできないのだ。それを我々は忘れているような気がする。まさに平和ぼけである。
 なるほど、軍備を他国に肩代わりしてもらうのはたしかにフェアなことではないかもしれない。それでも、軍備に金をかけるかわりに教育を充実させて安全な世の中を実現して、皆がまじめに働けば短期間のうちにこれだけ豊かになれる。なぜ日本にだけそれが可能だったのか。外国人留学生はそれを知りたくて日本にやって来るように私は思った。
 あるいは、日本はもっと普通の国になるべきだ、そのためにこの政策が必要なのだ、という意見もある。しかし、日本はもともときわめて特殊な国であって、普通の国になんかなりようがない、というのが私の考えである。
 日本は一種の実験国家ではないのか、と言った精神医学者がおられたけれど、こんなにたくさんの人間がいながら、国中ほとんど同じ人種ばかりで、どこに行っても同じ言葉が通じる。そして皆が同じ価値観を共有している。そんな国は有史以来無かっただろう、とその先生は言うのだけれど、何かあるたびに私はその言葉を思い出している。そうすると、いろんなことが不思議なくらいよくわかるのである。
 これにさらにつけ加えるなら、社会は単一であるくせに国土や気候はきわめて変化に富んでいて多彩である。さらに、外国イコール海外という完全な島国である。異民族に征服されて徹底的に弾圧された経験も無い。たしかにこんな国は他に無いはずである。だから、国というものに対する考え方が日本人はきわめて特殊なのだろうと私は思う。外国人とおつきあいをするとそれが何となく分かってくる。
 そもそも、日本人は平和な民族であって、飛鳥時代や平安時代の蝦夷への攻撃を対外戦争と考えるにしても、明治時代以前の対外侵略戦争と言えば、豊臣秀吉の朝鮮侵略くらいしか無かったのではないだろうか。少なくとも私は中学の歴史の時間にそう教わった記憶がある。
 戦争がいかに悲惨な結果をもたらして政権を危うくするか、秀吉と同じ時代に生きた徳川家康はそれをよく見ていたのだろう。対外戦争にせよ、戦国時代という内戦にせよ、その恐ろしさを身にしみて知っていた家康はそれが絶対に起こらないように自分の政権を作り上げた。そこにかなりの無理や損失があったのも確かだと思うけれど、その平和な体制は二百年も続くことになった。これは世界史上例の無いことだと私は歴史の時間に教わった。
 私が不思議に思うのは、家康の世代が死んでしまって世の中が戦争を知らないひとばかりになってしまっても、その平和な体制が揺らぐことがなかった、ということである。戦争体験者がいなくなってしまっても、平和な世の中を保つことは可能なのである。
 ただ、日本人は平和な民族ではあるけれど、ちょっとしたきっかけでとんでもない戦争をやりかねない。日本を研究している外国人はそんなふうに考えているのではないかと私は思う。単一民族であふれかえる恵まれた島国なので、頭に血がのぼりやすいのが日本人の欠点であるらしい。だから、日本には何か強力な歯止めをかけておく必要がある。今の憲法が押し付けなのかどうか私は知らないけれど、世界に類を見ない平和憲法はそんないきさつで出来上がったのかもしれない。そして不思議なことに、平和憲法の理念は実は日本の伝統に沿ったものでもある。しろうとの私にはそう見える。
 その平和憲法と強力な他国の軍事力の後ろ盾のおかげで日本は繁栄することができた。改善の余地はあるにしても、その方針が大きく間違っていたとは思えない。今の我々の豊かさがその証拠である。そして、そんな特殊な国である日本をわざわざ侵略しようとする国など現れるはずは無い。鎌倉時代の蒙古襲来を別にすれば、日本を侵略しようとした国など今まで無かったのである。こちらが敵意を示さない限り、日本が戦争に巻き込まれることは無いはずである。
 だから、集団的自衛権を認めたとたん、自衛隊員よりもまず海外にいる日本人がテロリストの標的になるのではないか。これは本当に恐ろしいことのはずなのに、マスコミも経済界もそれを指摘しないのはなぜなのだろう。結局、だらしないふりをして平和を謳歌するのは実は最大の防御であるし、それは軍備を整えるよりもずっと困難なことでもある。
 日本が軍事力を頼りにするようになると世界の迷惑になる。強大な経済力を持ちすぎてもバブルが起こって世界はやはり迷惑する。外国のひとびとはそれをよく知っているのだろう。だから、今のように、日本は平和なままで、そして世界恐慌にならない程度に不景気でいるのが世界のためにいちばん良いのではないか、という気もしてくる。
 いずれにせよ、普通の国でない、日本の特殊な事情をわれわれはもっと誇りに思ってよいのではないだろうか。この、唯一無二の特殊な実験国家として、日本が平和な歩みを続けてゆくのが外国にとっては貴重な教訓になるのかもしれない。それも国際貢献かもしれない。
 ・・・ここまで暴論を吐くと実に気持ちがいいものだけれど、それにしても今の世の中はきゅうくつすぎやしないか、というのが私の実感である。こんなに豊かなのに、なぜこんなにきゅうくつに生きなくてはならないのか。それが私にはまるで分からない。
 たとえば、最高学府を卒業しようという秀才たちのほとんどが、卒業と同時に終身雇用のサラリーマンになるためにすべてを投げうって就職活動に奔走する。馬鹿でもないのにそんなことをしていて本当にいいのだろうか。そして、こんなに豊かな生活を送っているのに、ほとんどの日本人はバカンスを取ることもできない。日常から離れて休息したり冒険したり研鑽することが許されない社会、それがまともだとは私にはどうしても思えない。だから、やぶから棒にこんな暴論をごり押ししようとする総理大臣が現れるのだろうか。私はそんなふうに思ってみたりする。
 日本の伝統も文化も歴史も、まるで理解していないあの総理大臣は、そう遠くない将来に消えてしまって、世の中はさらなる混乱におちいることになるのだろう。それはおそらく歴史の必然であって、その中で自分はどう生きてゆくのか、それを考えることに私は忙しい。ただ、江戸時代は実はそれほど外国と縁遠かった世の中ではなかったと言うし、安土桃山時代は今よりもずっと国際化が進んでいた、と私は聞いたこともある。規制緩和をするべきは政治や経済の世界ではなくて我々の考え方ではないのか。日本はもっと寛容に多彩にゆっくり生きてもよい国ではなかったのか。私はそう思う。
 その上で「やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるわし」というヤマトタケルノミコトの辞世の歌を思い出しておきたい。それを踏まえた上で、ようやく「うつくしいくに」という言葉が許されるように私は思う。


[ BACK TO MENU ]