謎さえも無い

「人間が崩れてきた」と言ったのは十年くらい前、亡くなる直前の池田晶子さんだった。まともな論理がまったく通じなくなる、痴呆化した人間ばかりの世の中になって、要するにこれは人間が堕落というよりも変質したのだ、というようなことを語っておられたと思う。
 この発言はまったく正しかったと私は思うけれど、世の中がここまで来てしまうと「それがどうした」と言い返すふてぶてしさがいつのまにか私にそなわってしまった。これからもっとひどいことになるのだから、これしきでへたばっているわけにはいかないのである。
 何度か書いたことがあるけれど、私はものごころがついた頃から「この世で生きているのは私ひとりではないのか、他人はすべてロボットではないのか」という疑念を捨てることができずに生きてきてしまったので、世間にうじゃうじゃいる他人が変質しようが痴呆化しようが知ったことではないのである。急いで付け加えると、この狂った確信があるからこそ、心あるまともなひとに接するのがことのほか幸せに感じられもする。
 新しいものが出てくるべき場所にはもはやいいかげんなニセモノしか見当たらず、価値あるものは陽の当たらない場所か古典の中にしか見出せない。それはべつに今に始まったことではないのだろうけど、世の中が豊かで便利になった分だけそんなニセモノが横行しやすくなっているのも確かだろう。それに超然としていられるのがアマチュアの特権である。いずれにせよ私には関係無い。
 こうして、科学技術にせよ経済にせよ、人間が作り出したものが人間の能力をはるかに超えてしまって、それが我々の生活の中にくまなく入り込んでしまった。ひとにぎりの極めて優秀なひとだけがそれを過不足無く使いこなして、その才能をますます伸ばす生き方をしている。そして大方のひとは、その便利さの海におぼれてしまって、もはやどうにもならないところにまで追い詰められている。そのどちらでもない私は、過剰な情報や便利さを適度に遮断してのほほんと生きてゆくばかりである。
 もちろん、未来のことを深く考えて生きているひとは決して少なくはないと私は思うけれど、そんな賢いひとが世の中の陽の当たる場所に現れることは当分無いだろう。それが今、いかに危険なことか、賢いひとはよくわきまえているはずだ。
 「こんな大きな事件になるとは思わなかった」最近、不祥事を起こす連中が必ずと言ってよいほど口にする言葉である。つまり、得体の知れない怪物が我々ひとりひとりのすぐそばにいて、それは不気味な沈黙を守りながら眠り続けている。それがいつのまにかとてつもなく巨大化してしまったことに我々はようやく気づきつつある。そのことに萎縮する必要は無いけれど、やつらの気配をないがしろにすることは避けたい。やつらが目を覚ましてしまったらもはや手のつけようが無いからだ。
 その怪物を生み育ててしまったのはもちろん我々自身なのだが、なぜ、こんな巨大なコミュニケーション技術を扱う方向に進むばかりの文明を我々は選択してしまったのだろう、というようなことを言っていたひとがいた。あるいはそれは人間の種としての欠陥なのだろうか。自家中毒のあげくいちどほろびてしまわないと人間は正気にもどることができないのだろうか。
 もしそうなら、そんな怪物が暴走させるこの乱世にはますますはずみがつくのだろう。あと何十年か経って、我々は新しい世代から、なぜあの時に何も手を打たなかったのですか、と詰問されることになると思うけれど、その答えはもうはっきりしている。世の中の大勢が目先のことをやり過ごすしか能が無くなっているからである。オウムがハルマゲドンを起こす直前も、あるいは太平洋戦争の前夜も、きっとこんな具合だったのだろうと私は勝手に想像している。今こうすればどうなるのか、それを検討して恐れる能力が不思議なくらい我々から失われている。その代償として我々は心身を病み、生活は便利ではあるけれどしだいにきゅうくつになってゆく。
 ただ、こんな世の中とまともにつきあっても仕方が無い。そう思っているひとはたくさんいるみたいだ。沈黙を守りながら、冷静に誠実に生きているひともたくさんいる。ならば、あまり悲観することも無いのかもしれない。
 そして、神代の頃から日本人は何も変わっていない、と言ったのは河合隼雄さんだった。この言葉は私にいつも静かな希望をもたらしてくれる。これは、冷静に誠実に生きることを私に教えてくれる不思議な言葉なのである。
 そんなわけで、よく考えてみると今の世の中、理屈で説明できないことなど何ひとつとして起こってはいない。人智を超えた巨大な謎など今の世の中には無いのである。世の中なんて本当に底が浅くて軽薄なのだと改めて私はあきれる。それに反して、自然には、人間の心身の奥深くには、あるいは歴史には、はてしない謎が巨大な渦を巻いている。そうであれば、今の世の中の馬鹿さ加減など子どもだましの悪い冗談に過ぎない。それを忘れることなく私は生きてゆきたいと思う。
 今、岩手県立美術館では私の大好きなジョルジョ・デ・キリコの展覧会が開かれていて、そこには「謎のほかに何を愛せようか。」という言葉が添えられている。私はこの展覧会を二回見に行ったけれど、もしかしたら、謎を深く愛していれば何も恐れるべきものは無いのかもしれない。それは光にあふれた明晰な謎である。その言葉がふさわしいデ・キリコは熱しやすい連中が多かったシュルレアリストとは違って、冷静な大人の画家だったと私は思う。会期中にもういちど見に行って、またあれこれ思いをめぐらせてみたい。誠実に謎を愛しているうちに、そのひと自身が深い謎を生きるようになる。これ以上の自由と幸せがあるだろうか。


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