遠くない将来・・・

二〇四五年に人工知能が人間の能力を超えるという新聞の見出しを見た。私はそれ以上その記事を読まなかったので詳しいことは分からない。しかし、この文句はよそでも何度か目にしている。
 おそらくそのとおりなのだろうとしか私には言えない。たしか「人類最大にして最悪の発明」という言葉がそこに添えられていた。それが本当なのかどうか分からないけれど、その実現はもう止められないところまで来てしまったのだろう。あまり関係無い話だけれど、馬鹿は死んでも直らない、という気がしないでもない。
 それはともかくとして、遠くない将来、人間の尊厳を無にするような高度な人工知能が始動すると、生身の人間は考える能力も判断する能力も、そして運動する能力も奪われて生きる屍になってしまうのだろうか。あるいは、奴隷とまでは言わないけれど、我々は人工知能をかしらにいただく二級市民に成り下がるのだろうか。人間に今以上の便利さや豊かさが必要だと私は思わないから、我々に幸せな生活が待っているとは思えない。
 おそらく、その世界は便利で清潔ではあるけれど、遊民と呼ばれる失業者が群れをなしていて彼らの出口はどこにも無い。明るい絶望と倦怠があるだけである。もっとも、そんな世の中はすでに実現しているという見方もできる。こんなことは歴史の過渡期には必ず起こることなのだろうか。
 そんな世の中の変動に比べればささいなことだけれど、その時、写真なんかあっという間にどこかに消し飛んでしまうと私は思う。写真が写真家の作品だ、という幸せな幻想はあと何年くらい有効なのだろう。写真家がカメラを構えて写真を撮る、という今まで当たり前だったことがなし崩しになる時が早晩やって来る。
 あるいは、芥川賞を取って終わる程度の作家が書く小説は、人工知能がいくらでも作り出すようになるのだろう。そんなふうに、人間が作り出す凡作が無意味になってしまえば、あるいは世の中は今よりもすっきりして住みやすくなるかもしれない。
 ところで、人工知能が人間を超えてしまうのなら、政治を真っ先に人工知能にまかせるのがよいのではないか、と私は考えてみた。
 政治はたしかに大切なことだと思う。しかし、実際に政治家がやっていることは、申し訳ないけれど私にはすべてままごとに等しいように見える。あるいはつまらないかけひきである。それでひとびとがより幸せになれるのならそれでもよいけれど、現実に我々を幸せにしているのは政治よりもむしろ無名のひとびとの無償の努力ではないか。
 政治というのは一種の賎業であり、そこに求められるのはそれを自覚した有能な技術者である、という意見を私はどこかで読んだことがある。しかし、それはおそらく生身の人間にはほとんど不可能なことだろう。ならば、そんなことは高度に進化した人工知能にまかせてしまうのがいちばんではないのだろうか。
 データ処理の能力だけではなくて、人間の持つ柔軟さを人工知能が獲得することもおそらく可能になる。ならば、政治家なんか全員を失業させて、その仕事はすべて人工知能にまかせてしまえば我々はより幸せになれるのではないか。権力を正しく使う能力なんか人間には無いと私は思う。世の中を幸せにする能力だって、おそらく人間は人工知能にかなわない。そうなる時は必ずやって来る。
 もちろん、人工知能に人間の生命を奪うことは許されない。と言うよりも、はるかに高度に進化した人工知能は、無意味に人間の生命を奪うことに意味を見出さなくなるのではないだろうか。ならば、高度に進化した人工知能が統治する社会では死刑も戦争も無くなる。そのうえで、適度に豊かで緩い世の中では犯罪も殺人も劇的に減少するのではないか。人間が人間を治めるから、人間が人間を裁くから、人間は人間を殺すのではないか。私はそんな気がする。
 進歩が加速すると、それは進歩が善だという前提さえ突き崩してしまうかもしれない。どうせならそのくらいまでアナーキーな世の中になってほしいと私は思う。
 人間の寿命よりも短い時間で、世の中の大前提はあっさりくつがえされてしまう。それだけはたしかなことである。これからやって来る未来が私は何だかとても楽しみになってきた。そのためにも、柔軟な心身とビンボーを楽しむ心構えを私は忘れずにいたい。惑わされずにしたたかに生き延びる必要があるのだ。


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