私の「小笠原紀行」ふたたび

三月の終わりに小笠原の母島を訪れた。それは私にとって六年ぶり二度目の母島への旅だった。東京の竹芝さん橋から父島まで船で二十五時間半、さらに父島で船を乗り換えて二時間、まるで平気なひともいるけれど、母島は船酔いに苦しんだあげくようやくたどり着く、日本でいちばん遠いところである。ついでにつけ加えておくならば、空路は自衛隊のヘリコプターしかない。
 それでも、あの陽射しと青い海と風と、素晴らしい景色に迎えられると旅の疲れなど消し飛んでしまう。旅と恋は辛さがあってこそ本物だ、という気持ちがどこかにあるので、道中の苦しさも私にとっては良い思い出になる。揺れる船の中で、何もできずにずっと横になってぼんやりしているのも悪くない。それでも私は船内の食堂で食事を取る。船酔いで気持ち悪くなっても、私は食べた物はしっかり消化してしまうので体力は維持できる。雑魚寝の船室できちんと眠る。このあたりが私のしたたかなところなのだろうと自分で思う。
 父島に着いてまわりを見ると植生が違う。ヤシの木が立ち並び、ハイビスカスが咲いている。さらに母島にたどり着くと、ひとびとの表情やまなざしが違う。穏やかな静けさと、亜熱帯の植物の優しい香りが旅人を迎えてくれる。それだけでもここに来て本当によかったと私は思う。
 宿に落ち着いて、私の気持ちも少し落ち着いてからやって来る「ここは何処なのだろう」という心地よい感触、それを味わうのは本当にひさしぶりだと私は実感する。
 母島は昼も夜も朝も本当に静かで、夜は静かすぎてかえって目が覚めることがあるくらいだ。そして朝、目が覚めると窓から穏やかな海が見える。乾いた風がゆるやかに吹いている。昼になると強烈な陽射しが照りつける。夜は満天の星空が広がる。星を見ると、緯度が低いので北極星が低いのに気がつく。私はようやく気を取り直して南の島にやって来たことを実感する。
 宿で美味しいご飯をいただいて、集落を歩いてジャングルを歩いて写真を撮る。宿に帰ってきて早めのお風呂に入って汗を流してから夕暮れまでの間、ベッドに横になって休息する。身体は疲れているけれど、気持ちがたかぶっているので昼寝をするわけではない。
 そんな時、私は目を閉じてぼんやりと静けさを聴く。時の流れが明らかにいつもと違う。そんなふうにして静けさを聴くのに飽きることは無いのだけれど、それが少し重くなることはある。そうなると、私は持参してきたCDをイヤホンで聴いてみる。カザルスが弾いたバッハの無伴奏チェロ組曲である。
 旅に出る時、持って行くならこれしかないだろう、と私は思っていたのだけれど、その予感は的中した。南の島で、その風の中で聴くカザルスは本当に素晴らしかった。
 その音楽に私は安らぎながら、それでも、音楽とは結局のところ人工の産物ではないのか、という気持ちも湧いてくる。その翌日、私は宿で知り合ったひとと一緒に小さな漁船に乗ってクジラを見に海に出た。ザトウクジラがジャンプするのをかいま見た後、船は沖合いで停止して、マイクを海に入れて皆でクジラの歌を聴いた。その音域はまさにチェロのそれだった。クジラが声帯をふるわせて奏でる歌が、弦をふるわせて鳴らすチェロを思わせる。カザルスのバッハも、生で聴くクジラの歌も素晴らしかった。きっと、両方を聴いたのがよかったのだと思う。
 テレビはリアルタイムで入るしインターネットもスマホも使える。しかし、母島に新聞は配達されないしコンビニも無い。信号もバスも鉄道も空港も無くて、父島との間にだいたい一日一往復の船便がある。それでも、現地に着いてしまえばべつに不便とも思わない。人間が生きてゆくには本来はそのくらいで充分なのだろう。宿は綺麗で質素である。ついでにつけ加えるなら、旅費も思ったほどではない。
 そんなふうにして島を歩き、海に出て、宿のひとと仲良くなったりしているうちに時は過ぎてゆく。もちろん、この島にも苛酷な歴史があるし、決して絵に描いたような楽園でないことくらいは私だって承知している。旅人にはいいところしか見えないのさ、と言われれば返す言葉は無い。それでも、この島のひとたちの風情は無垢と言うしかないし、私だって、もしかしたら本気で移住するつもりにならないとも限らない。そんなふうにしてこの島に住みついたひとはたくさんいる。
 この島の穏やかさと、おそらくは厳しい歴史が普段のつまらないわだかまりを消してくれる。小ざかしい知恵がここにいると無効になってしまうのである。その安らぎは何物にも代えがたい。
 前回、初めて小笠原を訪れた後に「李陵」や「山月記」で知られる戦前の作家、中島敦が小笠原旅行の折に詠んだ短歌を私は読み返してみた。昭和十一年三月、二十七歳の中島敦は父島を訪れている。南の島への憧れを持ち続けていた彼にとって、それは初めての南洋旅行だったのだと思う。その、何十首にもおよぶ短歌は「小笠原紀行」と題されている。
 これは、カメラの代わりに言葉で撮られたさわやかなスナップショットではないのか、と私は書いたことがあるけれど、その印象は今も変わらない。中島敦の短歌にはもともとそんな傾向があるみたいだけど、もしかしたら小笠原の風土がそれをさらに鍛えたのではないだろうか、と私は想像してみる。
 今よりもずっと苛酷だった船旅を覚悟のうえで、病弱だった中島敦がたどり着いた小笠原は、彼に深い安らぎをもたらしたのだろう。私はそれを想うことができる。
 そして私は、圧倒的であってもどこか優しい陽射しと、乾いた風と、青くて深い海と、亜熱帯の生き物たちと、古い日本を思わせるひとびとの暖かな思いやり、その中にいると本当に素直にたくさん写真を撮ることができる。何も思いわずらうことは無い。そのために、はるばる何十時間もの時間をかけて船に揺られて私はここにやって来た。そして、ここで撮った写真を私は素直に差し出すことができる。写真に理屈をつける必要は無いし言い訳をする必要も無い。これが写真なのさ、と私は言うだけだし、それは写真家にとって何よりも幸せなことである。
 そんなわけで、私はいずれまた母島を訪れたい。次に行ったら海に潜って防水タイプの「写ルンです」で写真を撮ってみたい。ジャングルの中に今も残る戦跡めぐりもしてみたい。何よりも、あの静けさを聴きに、ひとびとの風情に出会うために、私は船酔いを味わいつつまたここを訪れる。
 旅から帰ってきて、いつもの日常に穏やかな非日常が織り込まれているのを私は感覚する。この幸せは、旅で出会ったひとびとのおかげでもある。感謝の気持ちとともに、それを取り持つことができる写真の力をも私は感覚している。


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