よく働きよく眠り

正月は冥途の旅の一里塚、と言うけれど、私は、この世が淋しくなってきたように思えてならない。
 べつにこれは私が世をはかなんで言っているわけではなくて、今まで世の中を彩り我々を楽しませてくれた方々が、昨年に限ってもずいぶんたくさん世を去ってしまった。
 十一月の末に水木しげるが亡くなって、今年はこれで終わりかと思っていたら十二月には野坂昭如が死んでしまった。そんな巨匠たちに限らず、死者が旅立ってゆくとこの世はその分だけ確実に淋しくなる。
 そのかわりに、新たな才能が羽ばたいてくれればよいのかもしれないけれど、どうやらどの世界でもそんな巨匠に匹敵する新しい才能はなかなか生まれてこないみたいだ。これではこの世は淋しくなる一方である。
 そんな才人たちに限らずとも、この国は我々が予測していた以上に急速な少子高齢化が進んでいる。たとえば、明治維新と同時に出来た田舎の小学校の多くが今、全国各地で閉校に追い込まれている。ささやかな旅に出るとそれがよく分かる。これはただごとではないはずだ。世の中が今、明治維新以来まったく経験したことが無い衰退の道をたどり始めている。
 どういうわけか、それを認めることができないひとがずいぶん多いように私には思える。世の中が硬直しているのだと思う。そのうえ、汚れ仕事は弱者に押し付けてそこから目をそむけるのが当たり前になってしまった。お金も仮想現実の一種だとするならば、今は全員が仮想現実の中で生きていることになる。
 こんな社会に未来が無いのは当然のことだけれど、そんな我々の「終わり」はいったいどんなふうにやって来るのだろうか。何かしら決定的なハルマゲドンが起こるのかな、と私は思っていたのだけれど、この二十年の間に二回も大地震に見舞われても我々の厚顔ぶりは変わらない。だから、我々はハルマゲドンからも見放されて、このままずるずる闇に引き込まれてゆくばかりなのだろう。かわりにやって来るのは明るい絶望である。
 いかに華美に見えようとも、いかに便利で快適であろうとも、我々はすでにそんな荒野に住み始めている。そこでは絶望することすら容易には許されない。これを希望と言ってよいのだろうか。
 でも、そんな地獄とも天国ともつかない奇妙な場所は、昨年世を去った巨匠たちがすでに描きつくしていたのも確かである。まずはそれをひもといてみるしかないし、それが亡くなってしまった巨匠への礼儀でもあるだろう。
 さて、我々はこれからどうすればよいのだろう。
 ・・・ここが唯一の現実だと私は思いたくない。たとえば量子物理学が語るように、この世は無数にあるパラレルワールドのひとつにしか過ぎない。そう思わなくては、私はとてもこの現実を生きてゆくことができない。
 そして、この愚劣な現実とパラレルワールドをつなぐのは我々の無意識である。私にはそんな奇妙な確信がある。そして、無意識が我々の生活の前面に出てくるのは眠りである。そうであれば、何よりもまず充実した眠りを生きるのが大切であるということになるだろう。充実した眠りの中で、我々は真に自由な精神となってパラレルワールドを羽ばたいているような気がする。あるいは、我々は眠りの中で死者の世界を訪れているのかもしれない。
 結局、食事を取るのも、身体を動かすのも、勉強するのも、ひととおつきあいをするのも、もちろん働くのも、すべては眠りという無意識を充実して生きるためである、ということになる。人間は眠るために生きているのだ、とまで言うつもりは無いけれど、この現実と眠りという無意識が不思議な回路で結ばれていることを、もう少し大事にした方がよいと私は思う。そうすれば、我々はずいぶん気持ちよく生きてゆけると思う。
 愚劣な現実を楽しく生き抜くために、まずはよく働きよく眠る。そんな極めて当たり前の結論に達するのである。これは私の新年の抱負でもある。


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