歌を忘れたカナリアが・・・

大地震の前だからもう五年以上経つけれど、私は古本屋で野坂昭如の「科学文明に未来はあるか」という本を見つけて読んだことがあった。これは、一九八三年に岩波新書から出た対話集で、野坂昭如が彼と同世代の科学者六人と、核兵器や原子力発電、ゴミ問題、高齢化社会、生態学といった、人間の生活と深いかかわりがある問題について語り合っている。
 しかし、この本を私はいつのまにか手放してしまった。昨年暮れに野坂昭如が亡くなってしまったせいで急に読み直したくなって、近所の図書館から借り出して再読した。
 これは三十年以上前の本だけれど、ここで語られていることがまるで古くさく思えないのが不思議なくらいだ。幸い、この三十年の間に核戦争は起こらなかったけれど、六人の科学者と野坂昭如が予測したとおりの世の中が今、実現してしまったように私は思う。
 この本の高齢化社会の章で、あと三十年後にはもう地獄図しか思い浮かばない、というようなことを野坂昭如は言っていたけれど、今の世の中はたしかに地獄図である。それは高齢化の問題に限ったことではないだろう。
 真綿で首を絞めるように、という形容がぴったりだと私は思うけれど、結局、時間をかければ我々はどんな地獄でも荒廃でも受け入れてそれを日常にしてしまう。この本が出た頃は「風の谷のナウシカ」が発表されていた時期だったと思うけれど、野坂昭如だけではなくて、分かるひとには分かっていたのだなと私は思う。
 真の作家は亡くなってからその真価が分かるということだろうか。野坂昭如のように、一流の、しかもこのように視野の広い科学者六人を相手にこれだけの対話ができる作家が他に何人いるだろうか。とても分かりやすくて面白くて正直で、しかも科学や科学者に対する敬意を失わずにこれだけの話ができる作家を私は他に思い出せない。
 そして、これはもちろん野坂昭如の誠実さのおかげだろうけれど、ここに登場する科学者たちが本当に正直で誠実で、自らの弱ささえ隠そうとせずに必死に語ろうとしているのがたまらなく魅力的なのだ。今、おおやけの場でこれほど無防備に語ることができる科学者がいるのだろうか。
 対話とは本来このようなものであったはずだ。相手に対する敬意と信頼が無くては対話などそもそも始まらないだろう。そうであれば、今はどんな分野であっても対話が成り立たない、極めて不幸な時代なのだろうと私は思う。
 その頃から人間が冷たく自閉的になってきたのだという気もする。人間嫌いと言ってもよいだろうか。そして、考えることよりも行動を起こすことよりも、情報を高速に伝達して大量に集積することが尊ばれるようになっていった。これはどうしてなのだろう。この頃から日本だけでなくて世界中で人間不信が芽生え始めて、ひとりひとりが内にこもるように変わっていったように見える。この情報化と同時に、人間や世界が開かれてゆく方向に我々は進むことができなかった。どうしてだったのだろう。私には本当に分からない。
 たとえば、六十年代の末に人類は月に往復することを可能にして、それは飛行機が初めて飛んでからほんの七十年も経たないうちに成し遂げられた偉業だった。しかし、そこで人類の宇宙への進出は停止してしまって、それから四十年以上の間、我々はまったく月にも月以外の天体にも行っていない。べつにそのための技術が失われたわけではない。これはずいぶん奇妙なことではないだろうか。あのまま我々の宇宙への旅が続いていれば、今頃は月に人間が常駐する研究所くらいは出来ていただろうし、火星への有人飛行もすでに実現していたはずである。これは人類の歴史に例が無い停滞ではないかという気がする。代わりに覚えたのはテロや自爆である。なんとも情けない。
 先行きの見通しが無くとも我々の遠い祖先は故郷のアフリカを出て世界中に移り住んでいったし、大航海時代の船員たちは苦難を覚悟の上で未知の海に乗り出していった。そんな好奇心は我々の時代に挫折してしまったのだろうか。かわりに我々が選択したのは、こんなに冷たくて、まさにクラウドと言うにふさわしい情報の迷宮である。その中で我々は他者を信頼することを忘れ、世界を自分の足で歩くことを忘れ、考えることも忘れてしまったのかもしれない。予測もしなかった豊かさをこんなに早く手に入れた代償に、心に壁を作って自己防衛的になって広い世界があることを忘れてしまった。我々は歌を忘れたカナリアだろうか。そう思ってみたくなる。
 これから何十年も、もしかしたら何百年もかけて、我々の世界は冷え込んでゆくばかりなのかもしれない。もう手遅れだろうという気がする。なぜなのか分からないけれど、あの時代に我々は取り返しのつかない誤った選択をしてしまったのだと思う。
 それでも、あの暖かい息吹を私は憶えているし、その痕跡はこの世界にまだたくさん残されている。それを発見することが私の生きる理由になるのだろう。そう言えば、野坂昭如の小説にも「風の谷のナウシカ」にもそんな役目を果たす魅力的な人物が登場していたと思う。たとえ歌を忘れたカナリアであっても、こうして春がやって来れば、青空の下で風の歌を聴くことくらいは許されている。
 その歌のかなたには別の世界が広がっている。この世界は、そんな異世界を含めて成り立っているふくよかで厚みのある複合体である。それを忘れずにいたい。ふてくされたりするわけにはゆかないのだ。


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