正月は冥土の旅の一里塚

正月は冥土の旅の一里塚、ということなので、縁起でもない話を書きたい。
 そもそも、冥土というのは死者のたましいがおもむく所なのだそうだけど、人間はなぜ死後の世界をこれほどまで気に病むのだろう。
 死んだ後、死者がどうなるのか知っているひとはこの世に誰もいないし、臨死体験も結局は死なないでこの世に帰ってきたひとの体験談なのだから、その体験に何らかの価値があるにしても、それで死後の世界が存在する証拠にはならないだろう。
 死者を悼んで悲しむのはもちろん大切なことだけど、葬式も結局はこの世に残された我々のために行う儀式である。残された我々がよく生きることこそ死者の供養、という円環がここに成立する。これは当たり前の話かもしれない。
 ただ、死者の思い出はこの世に残るけれど、死者本人は無に帰る。天国も地獄も我々の心の中にある。だから死後の世界はあり得ない。それを我々が素直に受け入れることが極めて難しい。これは本当に不思議なことではないだろうか。
 あるいは、死んで無になることを恐れるひとは多いのに、生まれる前は自分が無だった、ということを恐れるひとがいないのも私には不思議というより身勝手であるように思える。自分が生まれる前からこの世界は存在していて、自分の死後もこの世界は存在する。これは本当に不思議なことであると私は思うけれど、そんなことを考えるひとも極めて少ないみたいだ。どうしてなのだろう。私には不思議で仕方が無い。
 意識は無を受け入れられない、というようなことを養老孟司さんが書いておられたけれど、なるほど人間というのはつくづく往生際の悪い生き物だと私は思う。死んだら自分はきれいさっぱり無くなる、と思っていた方が後悔することなく楽しく全力で生きられるのに、それができないひとが極めて多い。もったいないと私は思う。
 その「無」については仏教でも哲学でも数学でも物理学でも様々に考察されている。もちろん、私にそれをきちんと理解する力は無い。ただ、加賀乙彦の「宣告」という小説の終わりで、処刑を明日に控えた死刑囚が語る「それはこの世への徹底した無関心と明るい平和に充ちています。つまり充実した闇です」という言葉が私は好きである。
 「無」は無に違いないけれど、そこには様々な側面があるのかもしれない。私にはよく分からないけれど、無限には様々な種類がある、というのが数学の考え方であるらしい。それを私は思い出した。死んで無になることを恐れるより、そんなことを考えている方がずっと楽しい。
 昔は生きること自体が極めて苛酷で、人間の性質も今よりずっと荒々しくて残酷だったから、死後に極楽や地獄を想定したり、生まれ変わりを信じないと生きてゆけなかったのだろう。しかし、昔に比べれば極めて安楽で豊かで長い人生を送ることができる今は、死後の世界を想定する必要は無くなっているのではないだろうか。逆に、死んだら自分は無に帰る、という覚悟こそ今は必要だと私は思う。
 ブータンのひとびとは自然な形で生まれ変わりを信じていて、食卓にたかるハエさえも、ご先祖様の生まれ変わりかもしれないから、という理由で殺そうとしない、とのことである。これはとてもうらやましいことだと私は思うけれど、我々は残念ながら、そんな生まれ変わりを信じることはできなくなってしまっている。
 だから、今の時代、こんなに思い上がって豊かで長い人生を送ったあげく、死後は極楽に行こうなんて虫がよすぎると私は思う。もしかしたら、死後の苦しみと引き換えにこの世の豊かさがあるのかもしれない。これもなかなか恐ろしい考え方である。それならば、死後は無に帰ると思っていた方がかえって安心ではないだろうか。もちろん、それでこの世の悪が許されるということにはならないけれど。
 極楽というのはワンパターンで、あんな所に長くいたら退屈で気が狂ってしまうだろう。つまり、極楽は長くいると地獄に変わる。また、本来の地獄にしても、この世よりひどい地獄があるとは私には思えない。だから、極楽も地獄もあり得ない。そして、極めて特殊な少数の例を除けば、前世の記憶を持ったままの生まれ変わりは存在しない。だから、死んだら自分は無に帰るしかない。ただ、繰り返しになるけれど、無に様々な種類がある可能性は否定できない。
 ところで、自分の意思でこの世に生まれてきたひとはいない。人生は誰にとってもいつのまにか勝手に始まっていたものである。その、自分の意思とは無関係に始まった人生を受け入れて、我々は一生懸命に年齢を重ねてゆく。そのあげく死んでしまって、その後に三途の川の向こうでおさばきを受けることになったとしたら、私はえんま大王に言ってやりたい。与えられた人生を一生懸命生きてきたのに、それを裁く資格があなたにあるのですか、と。
 ジョン・レノンの「イマジン」に「no hell below us above us only sky」という詞があったと思うけれど、私はこれを「地獄なんかどこにも無い、ただ青い空が広がっているだけなんだ」と勝手に訳している。青い空や降るような星空、あるいは広大な海原や深い森を前にすると、人間が想定してきた死後の世界が卑小に思えてくるのは確かだろう。そして、写真はそれにかかわることができるメディアなのだという気が私はしている。これが私の新年の抱負になるだろうか。


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