墓碑銘を見た記憶

以前、大地震の後のことだけれど、私は仕事の用事で職場の先輩とふたりで岩手県内のお寺を訪ね歩いたことがある。住職の許可をもらって墓地に入り、ある調査を続けていた。それが何の調査かということは、この文章とまったく関係が無いことなので伏せておくことにする。
 その調査のかたわら、私はそこにある墓石や墓碑銘をちらちら眺め続けていた。あるお寺では、数十年前に飲酒運転の車にひかれて亡くなったお嬢さんの墓碑銘を目にして胸を突かれたことがあった。そこには事故の詳細とご遺族のねがいが記されていたからだ。理不尽であまりにも悲しくて、もう取り返しのつかないことを記録して後の世に伝えようとして墓碑銘は作られるのだろうか。
 そんなふうに私があちこちの墓地を訪れて気づいたのは、墓石や墓碑銘に記されているひとのほとんどが明治のなかば以降に亡くなっているということだった。古いお寺では、まれに江戸時代終わりの元号を目にすることがあったけれど、それは本当に珍しいことだった。
 他の地域、たとえば関西方面ではもっと古い墓碑銘も珍しくないのかもしれない。しかし、今に続く一般庶民の家族というものは江戸時代以降に成立したものだ、という知見を私はこの経験で深く納得することができた。
 これは、ちくまプリマー新書から出ている渡辺尚志著「百姓たちの江戸時代」の冒頭に述べられていたことで、この本は江戸時代の普通の百姓、つまり我々の大多数のご先祖の生活に関する研究を分かりやすく紹介していてとても興味深い。ただ、この本には葬送についての記述が見当たらなかったので、この時代の我々のご先祖が死者をどんなふうに送っていたのか、残念だけど私はまったく知らない。
 もっと時代をさかのぼって縄文時代であれば、死者の魂は山に帰って行き、いずれ我々の子孫として再来する、と縄文人は考えていたらしい。そんな考え方がどんな変遷を経て、現在の我々のように、墓石や墓碑銘に名前を刻まれて家族の先人として供養されるようになったのか、私はそのことに興味がある。
 ただ、今の家族の形態にせよ葬送のあり方にせよ、もう今までどおりには続かないことも明らかだろう。私自身、死んでしまったら骨を墓という地下室に閉じ込めておくよりも、散骨でもしてもらって大自然の循環に帰してもらう方がずっと嬉しいし、墓石に訳の分からない戒名と一緒に名前を刻んでもらっても仕方が無いと思っている。友人知人の思い出と一緒に、私はゆるやかにこの世から消えてゆきたい。そう思っているひとは私だけでなくて世の中にたくさんいるようで、これは葬送についての考え方が大きな曲がり角にさしかかっていることの表れなのだろう。
 それにしても、人間はいったい何年くらい生きるのだろうか。本人の肉体が滅びて人生が終わってしまっても、ひとはそう簡単には死なないのだと私は思う。つまり、本人が死んだ後もひとは家族や友人知人の思い出の中で生き続ける。そのひとを直接に知るひとがいなくなった時に人間は本当に死ぬのではないか、と考えてみてもよいような気がする。
 そうであれば、人間の寿命は百五十年くらいなのだろうか。思い出を記憶しているひとが死に絶えた時、ひとは墓碑銘に刻まれた名前に還ってしまう。墓地を歩きながら私はそんなことを考えていた。
 もちろん、赤の他人でしかない私にはただの名前でしかないのだけれど、この、目の前に広がる膨大な数の墓碑銘のあるじにはそれぞれの人生があって、その名前の後ろにはたくさんの喜びや苦しみが控えている。
 こんなにたくさんのひとが生きてきたのだから、生きることの重みというのは実はありふれたものだ、という考え方もできるだろう。でも、それはありふれたものではあっても徹底的に個人的でかけがえのないものなので、誰と分かち合うこともできない。
 その孤独な重みに耐えてひとは生きてゆくのだけれど、人生を終えた時、私は墓も墓碑銘も残したいとは思わない。生きた証、と言うとかっこいいけれど、たいした人生でもないのに、墓とか墓碑銘とかそんなありふれた物を残すとかえって成仏(?)できないような気がする。まあ、これは私の偏見かもしれないけれど。
 縄文人のように、いずれ子孫として生まれ変わって再来する、という暖かい思いやりとともに大自然の中に死者を送ってくれるのであれば、そして死者を思い出の中にだけ葬ってくれるのであれば、私もそれを受けたいと思うけれど、二十一世紀の今、そんなねがいはかなわないだろう。
 ・・・私はべつに死を前にしているわけではないはずなのに、どうしてこんな話になってしまったのだろう。よく分からない。でも、人生のなかばにこんなことを考えておくのも無駄ではないのかもしれない。暖かい孤独を楽しむことさえ今はなかなか大変なことかもしれないからだ。だからこんなことを考えてしまうのだろう。犀の角のようにただひとり歩め、というブッダの言葉を読み直しておきたい。
 唐突に話は変わるけれど、「平成」は来年で終わるらしい。平成が終わると昭和もようやく終わるだろう。なつかしいけれど、本当はただうっとうしいだけだった昭和なんか早く終わってほしい。いまだに世の中のあちこちに昭和の薄汚い残りカスがこびりついている。美しい思い出だけを残して昭和なんか早く終わってほしい。それに、元号そのものだって、次の次の天皇の頃には自然消滅してしまうんじゃないか、という気がする。どうなるものなのか、私はなるべく長生きしてそれを見届けたい。


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