愉しきかな乱世

日本経済新聞には「私の履歴書」という連載記事があって、各界の著名人が月替わりでご自身の人生や仕事をふり返る文章を毎日掲載している。ここには大企業の経営者や政治家が登場することが多いけれど、時々は大御所と呼ばれる芸術家が執筆することもある。

この欄に登場するようなひとは皆、大変な苦労を重ねて生きてきている。それは私にも分かるつもりだけど、それでも芸術家の人生は財界人や政治家なんかよりもずっと素敵で面白い。いかに大変な思いをしようとも、やっぱり芸術家は幸せである。もちろん、ここに登場するくらいの芸術家は他人の苦労、一般のひとの苦労をよくわきまえておられる。だからますます幸せなのだと思う。

ただ、芸術家は幼い頃から猛練習に励む必要があるので、人生の順番が一般のひとと逆になることがある。私はそんな印象を受ける。芸術家として一応の名を成してから、ようやく他の分野の勉強をしたり世間並みの経験を積んだり、というひとも多いみたいだ。でも、それもまた素晴らしいことなのだろう。

それに比べると、日本の財界人や政治家の人生の何と貧しいことか、と私は情けない気持ちにもなってくる。読んでみても文章は下手で面白くないし、自慢話に走りがちである。この程度の人物が日本の経済や政治のかじ取りを担っているのか、と思うと恐ろしくなるくらいだ。これを堅実とか苦労とかいう言葉でごまかして欲しくない。

他の新聞には、大企業の経営者の愛読書を紹介して本人にインタビューする記事が載ることもあるけれど、大企業の経営者ともあろう者が、この程度の本しか読んでいないのか、と思うと私はますます情けない気持ちになる。こんな人物が率いるような会社に先を争って入ろうとする有名大学の学生は実は大馬鹿なのではないか、と私は暴言のひとつも吐きたくなる。

日経新聞の「私の履歴書」で、ずっと以前、フランスの中央銀行の総裁を務めたひとが執筆していたことがあったけれど、その中で、「十九世紀の詩人で最も偉大なのはマラルメだと思う」という文を読んで私は心底驚いたことがあった。日本の財界人や政治家から、これに類する言葉を聞くことはできるだろうか。格が違う、とはこういうことを言うのだろう。そこには大人と子どもくらいの開きがある。

日本という国が、その危機的な状況から目をそらして思い上がって浮かれている。これに気づいているひとは少なくないだろうと私は思うけれど、もしかしたら、八十年近く前、思い上がって無謀な戦争に突入した頃とよく似た時代を我々は生きているのかもしれない。そんな気もする。ひとりひとりに傑出したひとはもちろんたくさんいるけれど、いざ何かが起こったら、日本は七十年前のように無残に崩れてしまうのかもしれない。もちろん、もう崩れ始めているよ、毎日のニュースを見ていれば分かるじゃないか、という気もする。この、幼稚で硬直した世の中はいつまで持つのだろうか。

・・・話をもとに戻すと、そんな著名な芸術家の陰で、芽が出ずに終わって人生を棒に振った連中は無数にいるのだろう。そんなことを私も落ち着いて考えられる年齢になってきたみたいだ。

自分を見極める勇気を持てずに、あるいは自分にふさわしい道を選ぶ勇気を持てずに道を誤ってしまった連中を、私だって写真の世界でも学問の世界でもたくさん見てきたつもりだ。

自分にふさわしい道を見つけて幸せになることは誰にでもできるはずなのに、どうしてそれができない連中がこんなにたくさんいるのだろう。それが私には分からない。そんな連中とは、悲しくなるだけだからもうつきあいたいとは思わない。もちろん、単に流されて生きている奴らは論外である。目立たずに、誠実に楽しく生きているひとはたくさんいる。これも当たり前のことである。

ろくでもない経営者や政治家がたくさんいて、自分を見つめることができない弱い奴らがたくさんいる。周りのレベルがその程度だからこそ、今は努力が必ず報われる時代なんだ、と言っていたひとがいた。なるほどそうかもしれない。まさに「愉しきかな乱世」である。

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