面白いこと

うろ覚えで申し訳ないけれど、この世に面白いことなんか何も無い、それでも面白く生きてゆこうとするのは心のあり方でしかないんだ、というような意味の辞世の歌をどこかで目にした記憶がある。歌を詠んだのは若くして亡くなった幕末の志士、高杉晋作だったと思う。
 私は今のところ幕末の歴史にあまり関心が持てないし、高杉晋作というひとがどんな業績を残したのかということもほとんど知らない。ただ、このひとはとんでもなく波乱万丈な人生を駆け抜けた、ということだけを私は歌の解説で読んだ。
 この世に面白いことなんか何も無い、という断言は本当に潔くて、私は嬉しさのあまり涙が出そうになる。それでも、この天才はそれに甘えること無く、自分の心の持ちようと努力で人生を精いっぱい面白く生き抜いた。その誇りがまた私をしびれさせる。
 ・・・でもさあ、この世に面白いことなんか何も無い。そんなことは小さな子どもから百年を生きた老人にいたるまで、誰でも気がついていることなんじゃないの、私はそうも言ってみたくなる。それを認めるのが怖いんでしょう、あはははは・・・
 しかし、その、何も無い、ということがまた生きる歓びの源泉であることは、高杉晋作のような天才でなくとも、私ごときでもうすうす知っている。だから、そこから目をそむけることなく静かに生き続けることは誰にでも可能だということになる。
 薬物やギャンブルやカルト宗教、あるいは仕事といった、人間を中毒におとしいれるものはこの世にはたくさんあるけれど、そんなものにうつつを抜かしていても仕方が無い、ということを我々はよく知っている。その空虚をお金で埋めることもできない。この世の享楽を認めながらも、それが生きることを決定的に支えるものではない、ということを我々はよく知っているのだ。
 けれども、のんべんだらりと平凡に生きても退屈なだけだ、ということも私はよく知っているし、この世はつかの間の苦しい夢でしかない、なんて悟ったようなこともこの種の人間は言わないのである。人生がこうして存在するからには、何とかしてそれを面白く、できれば他人のためにもなるように生き抜く必要がある。それ以外に生きる理由は無いし、いずれ自分の意思とは無関係に人生は終わる。それでいいじゃないか、というわけである。
きっと私は幸せなのだろう。他人からも時々そう言われる。何ものをも信じること無く、言い換えれば何事もほどほどに信じて、笑顔を心がけて誠実に生きようとする。孤独を恐れなければ孤独になることは無いし、飢え死にするほど追いつめられることも無いみたいだ。これも人生の不思議な逆説だと思う。
 そんな私がどうしてこうもしぶとく写真を撮り続けているのだろう。そんなに写真って面白いの、と聞かれることもある。たかが写真ではないか。そんな問いには、写真は無意識に触れてくるから面白いんだ、と今の私は答えることができる。逆に言えば、無意識に触れてくる写真しか私は興味が持てない。作為的な写真の価値が私には理解できない。
 無意識にシャッターを押す時、あるいは暗室にこもる時、そして自分の写真を選ぶ時、それから他人のすぐれた写真をながめる時、それは私にとって、眠りの時間に匹敵する無意識の快楽なのである。
 写真に限らず、この世で面白いものは無意識に触れてくるものだけだ、と断言してしまっていいように私は思う。ただ、無意識に溺れるのは薬物やカルトにはまれば簡単なことなのだけど、無意識に触れるというのは相当な強さと適性と経験、あるいは知識が必要なことになる。それを探るために人生があるのだろうか。
 そして、本当に不思議なことなのだけど、無意識にうまく触れられるようになると、それが他人の歓びにつながってゆくらしい、ということである。写真なんか、あるいは自分の仕事なんか何の役にも立たない、と卑下する必要は無いらしい。これは本当に素晴らしいことだと私は思う。
 話は飛ぶけれど、あの世というのはもしかしたら無意識の本体のことを言うのかもしれない。もしそうなら、無意識に溺れることなくそれにうまく触れるのは、この世に生きている人間だけに許された特権なのだということになる。その特権を使うことなくあの世に帰ってゆくのは実に馬鹿馬鹿しい、ということにもなるだろう。
 何も無い虚無の中を、自分の居場所を自分で作りながら何も無い方向に向かって移動し続ける。それがこの宇宙における存在の方法であるらしい。一般向けに書かれた物理学の解説書を読んで私はそんな感想を持ったことがある。我々人間も、もしかしたらそれは同じなのかもしれない。
 結局、ホラも吹かなきゃホコリも立てず、 いびきもかかなきゃねごとも云わず、ボソボソ暮らしても世の中同じ、ということになるのだろう。
 ・・・まずは充実した昼の時間と豊かな眠りを大切にして私は生き続けたい。めぐる季節の中で、もちろん私はこれからも写真を撮り続ける。写真はすべてフィクションであり架空のものだ、と言ったのは天才アラーキーだったと思うけれど、これもまた写真家にとって大いなる希望になるような気がする。


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