記録という覚悟

キヤノンが創業以来ずっと続けてきたフィルムカメラの出荷をついに終了した、というニュースがあった。その、最後に残った高級一眼レフの製造は数年前に終わっていたということだけれど、キヤノンのような巨大企業がそれを今までカタログに載せ続けてきた、その努力に我々は敬意を払うべきなのだろう。
 それにしても、と私は思う。もしかしたら、デジタルカメラもあと何十年か経てば、こんなふうに市場から姿を消してしまうのではないだろうか。
 たとえば、携帯電話が広く普及してそれがスマホに進化して、そこに搭載されたカメラの性能が飛躍的に進歩して今までのカメラがあまり売れなくなってしまう。そんなことを今から三十年以上前に予測したひとがどれだけいただろうか。その結果として今、かつてとは比較にならないほど大量の写真が撮られて、それがネット上に貼り付けられているけれど、それが価値あるものとして残ってゆくとは私にはとても思えない。そして、それは「写真」ではなくて「画像」と呼ばれている。残ってゆく「写真」ではなくて、すぐに拡散してしまう「画像」である。そのはかなさと怖さをみんなよく知っているのだと私は思う。
 電子データは何か巨大な天変地異が起これば消えてしまうと言うし、固定されたデジタルデータも百年単位の時間で眺めれば、すぐに読み出し不能になってしまうそうである。巨大なデータばかりが死蔵されて、そのデータが何を意味しているのか分からなくなる。あまりにもその量が多いために読み出しも引き継ぎも不可能になる。そんな可能性は無いのだろうか。そうなれば何の記録も残されないのと同じことである。しろうとの私はそんな余計な心配をしている。
 そもそも、人間が後世に残すことができる記録の量は極めて限られているのではないかと私は思っている。いくらメディアが進歩しようが、人間が受け取ることができる記録の量は限られたもので、それ以上の記録は死蔵されたまま意味不明となって消滅してしまう。それはメディアがアナログだろうがデジタルだろうが同じことだろうという気がする。
 記録する、ということには覚悟、あるいは無垢な精神が必要になる。それをわきまえていない奴が多すぎやしないか、というのが私の感想である。だらだらと情報を垂れ流してもそれは記録にはならない。それは写真であっても同じことだろう。そんなものにつきあいたくないと思うのは私の勝手ではあるけれど、その結果として、もしかしたら、今の時代は後世に価値ある記録を残すことはできないのではないだろうか。
 数万年前に洞窟に残された壁画や、文字の誕生と同時に残された五千年前の石碑は、今もその時代の生き生きとした記録として残っている。壁画や石碑のような原始的なメディアほど遠い未来にまで残る。それは記録というものの鉄則のようである。石碑に刻まれた古代の文字も、後世の学者の努力によって少しずつ解読される。そんな営みはもしかしたら、その記録自体の情報量の少なさと内容の素直さのおかげで可能なことなのだろうか、と私は想像してみる。
 ただ、後世に記録を残す、という考え方は二十世紀もなかばを過ぎてから広がったものではないのか、という気もする。古代のひとびとは後世の我々のために記録を残してくれたのではなくて、神のために、あるいは王家の末裔のために記録を残したはずである。神のためでなくとも、王家のためでなくとも、そんな敬虔な気持ちが無ければ記録というものを残すことはできないだろう。
 だから、神も自然も畏れず、子どもたちの未来を真剣に気遣うことも無く、時の権力者のご機嫌を取るためには公文書までも改ざんして、それが何の罪にも問われない時代に生きている我々は、いかなる分野においても価値ある記録を残すことはできないような気がする。
 ・・・価値ある記録を残すということは、もしかしたら夢をみるのと同じなのではないか、と私は考えてみる。
 ずっと以前に読んだ筒井康隆の長編「虚航船団」のラストを私は思い出している。最終戦争が終わって、荒れ果てた地上に生き残った母親が息子に問いかける。「いいやこれはもう世の中なんてものじゃないねえ」「お前はいったいこれから何をするつもりなんだい」息子がそれに答える。「ぼくかい。ぼくなら何もしないよ」「ぼくはこれから夢を見るんだよ」。おそらく、地上に残された最終戦争のわずかな記録がその夢のよすがになる。今、我々が生きているこの現実が、それに比較できるほどの荒れ果てた乱世であるのなら、この小説はまた別の説得力を持ち始めるだろう。
 ところで、私の以前の職場の上司の口ぐせに「人間は忘れるから生きてゆける」というのがあった。そんな忘却の結果として残るものが記録なのかもしれない。だから、記録するという覚悟が無いままに、取るに足らない生活の細部を垂れ流している我々は、それに縛られて身動きできなくなってしまうのではないだろうか。優れた記録を残すひとは自身については極めて寡黙な印象がある。そうでなければ自由に誠実に記録することは難しくなるのだろう。
 人間は死んでしまえば墓碑銘に刻まれた名前に還ってしまう、と私は書いたことがあるけれど、これを言い換えると「人間は忘れられるから死んでゆける」ということになるのかもしれない。つまり、取るに足らない、あるいは不愉快な事象が生き残ったひとびとから徐々に忘れられてゆくからこそ我々は死者になれる。そんな忘却を受け入れて、誠実な記録を残す覚悟を持たなければ、我々は死ぬことさえもままならなくなるのかもしれない。
 写真は記録である、そんなことは森山大道さんが言うとおり、今さら改めて言うまでもない自明なことである。記録する覚悟というものを私はそろそろ意識してもよい年齢になったのかもしれない。それは新たな夢に踏み込むことになるのだ。「記録」という言葉に、それほど広大な自由が含まれていることを忘れずにいようと思う。
 私はいったい何を残せるのだろう。「日本の写真家は自分のプリントを持つということにあまりにシビアでなかったよね」という森山さんの言葉も私は思い出している。


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