写真という魔法、ふたたび

写真界の巨匠、長野重一さんが九十三歳で亡くなられた。実は、私は一度だけ長野さんにお目にかかったことがある。もう二十年以上前のことだから、その話を書いても許されると思うので、少し思い出してみたい。

それは、森山大道さんが東京のギャラリーで個展を開いた時のことだった。私が「ごめんください」と言って会場のドアを開けると、奥の部屋から森山さんが出てこられた。他にお客はいなかった。そして私を見るなり「現れたな」と言って、にやりと笑った。そして、「ひととおり写真を見たら奥の部屋に来なさい」と言って下さった。私がそのとおりにすると、その部屋に初老の紳士がおられて、それが長野さんだったのである。

森山さんは「阿部君」とひと言で私を紹介して下さって、すぐに長野さんとの雑談にもどられた。私はおふたりのとなりに座ってそのお話をずっと聞いていた。

そのお話や、私が接した長野さんの人柄が私にとってかけがえの無い財産になったのはもちろんのことである。あれは、不思議なくらい穏やかな時間だったと思う。

お話が少し途切れたところで、私は持参してきたモノクロのベタ焼きを長野さんに見ていただいた。それは、私が新潟市に住んでいたあいだに写した新潟の町のスナップだった。十枚か二十枚くらいはあっただろうか。長野さんはそれをていねいに見て下さって、ひと言アドバイスを下さった。それは私にとって宝物のような言葉になった。そのすぐ後に長野さんは席を立たれた。

長野さんが帰られた後、森山さんは「長野先生にベタ見てもらうなんて阿部君よかったねえ」と言って下さった。私は笑顔で「ええ」と答えたような気がする。

それから少し時間が経ってから出た長野さんの写真集「遠い視線」を私は購入して、これはもちろん今も私の本棚に並んでいる。それからもっと時間が経って、私は盛岡の古書店で長野さんの著書「ドキュメンタリー写真」を見つけた。この二冊は、もうどれだけ読み返したか分からない。今思えば、長野さんも、「慈父」という言葉がふさわしいひとだったと私は思う。そんな長野さんにお目にかかることができて私は本当に幸せだった。あれは、もしかしたら森山さんの粋なはからいだったのだろうか。

この機会に思い出してみると、私は、森山さんと中平卓馬さんがふたりきりで雑談している間に座って一緒にお茶を飲んでいたこともある。その時も私は黙っておふたりのお話を聞いていた。森山さんが席を立った時に私は中平さんに、持参してきたモノクロのプリントを見ていただいた。中平さんはそれをていねいに見て下さって、ひと言アドバイスを下さった。そして中平さんが席を立った時、私は森山さんに「初めて中平さんにお会いするんですけど、なんだかチェット・ベイカーみたいですね」と言った。すると森山さんは、あの魅力的にくぐもった声で「むふふふふ」と笑っておられた。この話は、私は以前も書いたことがある。

荒木経惟さんが東京の下町を写し歩くのに私は同行させていただいたこともあるし、その後、荒木さんと森山さんが呑んでいる場所にも同席させていただいた。この時は北斎やわらさんも一緒だったと思う。

それから、私が初めて森山さんの事務所に電話した時、それを取り次いで下さったのは、今考えると山内道雄さんだったのだと思う。その時の、山内さんの謙虚なお声は今も私の耳の奥に残っている。その数年後、私は山内さんの新作写真集を、あるひとの紹介で予約したことがあるけれど、後日送られてきたその写真集には、山内さんの、あの達筆な直筆のお手紙が添えられていて私は本当に恐れ入る思いがした。山内さんは今でも私にとって雲の上のひとである。

直接お話ししたわけではないけれど、私は立木義浩さんや内藤正敏さんの講演会に出席して、それぞれのお話を間近に聴いたことがある。細江英公さんに遠くから会釈を差し上げたら、細江さんがわざわざ私の方に向き直って大変にていねいなお辞儀を返して下さって、それこそ穴があったら入りたいような気持ちになったこともある。

あるいは、テレビを通してではあるけれど、私は内藤正敏さんや鬼海弘雄さんの撮影現場を何かの番組で見たことがある。それは私にとってお手本のひとつになっている。

あれこれ思い出してみたけれど、私は一介のアマチュア写真家として恵まれ過ぎていると思う。私が今でも写真を撮り続けているのは、これまでいろんな世界でいろんなひとと出会ったけれど、超一流と言われる写真家の人柄が、誰よりも何よりも魅力的だったから、そのおかげなのだと思っている。この経験を無駄にするわけにはゆかないし、それに応えるためには、たとえささやかではあっても私は写真を撮り続けてゆく必要がある。そして、それは何よりも楽しいことなのである。

ただ、これだけ魅力的なひとにたくさん出会って多くのことを学ぶと、それを自分の中で消化して外に表現できるようになるには長い時間がかかる。今にいたるまで、そんな私をずっと見守って下さった森山大道さんと、そして北斎やわらさんこそが私の人生の大恩人である。いくら感謝しても足りないのだ。結局、写真の不思議が私の場合、自分という謎にそのまま結びついている。

それにしても、十代のなかばという早い時期に写真に出会ってしまった私の人生は、他のひとのそれとはずいぶん違うものになっているのだろうか、と最近になってようやく私は気がついている。

写真に出会った頃、私はカフカに魅了されていたのだけれど、職業作家ではなかったカフカのように、私は写真を職業にするつもりは最初から無かった。こんなふうに、見る目のあるひとに認められればそれでよいと私は思っていた。そして、そのとおりの人生をこれまで歩んできた。だから、写真とひとまず無関係な勉強をしたのもとても楽しかったし、今、その延長線上にある仕事をしているのも正解なのだと私は思っている。アマチュアの厳しさと愉しさを生きているのは幸せなことだと思う。

でも、写真なんてそれだけのものでしかないのかもしれないのに、そんな幻のようなものにうつつを抜かして、それでも何とか働いてもいるのだからまだましなのかもしれないけれど、少しでも気を緩めると、写真の魔法というやつはたちまち解けてしまう。そんな魔法が解けてしまえばこの世界は荒野にしか過ぎないし、私がこの世に生きる価値も意味も無くなる。それも私にはよく分かる。たかが写真、と思いながら写真をいとおしむこと。それがこの魔法を大切にすることになるのだと私は思っている。

そして、未知のひとにも、時代や場所を越えて人柄というものは必ず伝わる。これも写真が私に教えてくれたことである。そのことも私は忘れないでいようと思う。私の場合、写真を撮り続けることは夢と現実を同時に生きるのと同じになるみたいだ。「たかが写真」なのに、本当に不思議だと思う。

[ BACK TO HOME ]