夏の終わり

酷暑の夏がようやく終わる気配がある。暑かった間、あるいはそれまでの晩春から梅雨までの季節、いったいあれは何だったのだろう、というふうに、我に帰ると言うか、少し落ち着いてものを考えられるような気がする。ランボーが書いたように、十九世紀までは、夏を惜しんで「もう秋か」でよかったのだろうけれど、温暖化が進む乱世の二十一世紀は「ようやく秋」というふうに、寂しさを伴わずに秋を喜んで迎えられるように思う。これは気候のことばかりではない。

何事も下り坂の世の中ではあるけれど、もしかしたら、成熟とはこういうことなのかもしれない。

今はみんなが悪い夢をみてそれに踊らされている。それはたしかにそのとおりなのだと私は思うけれど、それをひとまず遮断して、ようやくめぐって来る涼しさの中で足元を見てみると、これはささやかな成熟の季節かもしれない、そんなふうに私は思うこともある。外界にふりまわされること無く、律儀に規則正しく生活しながら、にこやかに、しかし、時には適度にひきこもることも今は大切なのかもしれない。世の中の悪い夢につきあわされる必要なんかどこにも無い。もうたくさん、とも思う。

下り坂の世の中を悲観するよりも、そんなふうに考えておく方が楽しく有意義に生きられるような気がする。かつて、私がうつ病で苦しんでいた頃、主治医の先生から「自分の力でどうしようもないことを悩むのは止めなさい」と言われたのを思い出す。そんなことをしていると幸せが逃げていってしまうし、私自身、少しでもほがらかにしている方が世の中のためでもある。

と言ってみても、不思議なことに、私は今まで何があっても、暗く落ち込んでいる、とひとに指摘されたことが無い。私をいちばん理解していないのは、実はこの私自身なのかもしれない。暑さボケ、暑さ疲れから回復する、必要なのはそれだけのことなのだろう。

それでも、何があっても私は休日になるとカメラを持って外を歩いている。コロナやら何やらで旅ができなくなってしまっても、いつも歩き慣れている道を、飽きもせずに私は写して歩く。

その時、私は別世界をかいま見ているのだと思う。内界と外界の境界から私はその両方を俯瞰することができる。

作為とも技術とも無縁なスナップ写真だからこそ、そんな不思議なことが可能になる。それを、こんなふうにたくさんのひとが見て下さる。これが写真の不思議なのだと私は思っている。

それにしても、こんなふうに、誰にでも撮れるような写真、しかも他者が喜んで見てくれるような写真を生涯にわたって撮り続けることができるひとは、そんなにたくさんはいない。これも私には不思議で仕方が無い。素直な写真を撮り続けることが最大の困難である、これが写真の逆説であるらしい。

どうしてみんな、作品と称して写真に作為を込めようとするのだろう。言葉で絵解きをしようと思うのだろう。袋小路に追い詰められてしまうばかりなのに、それがどうして分からないのだろう。そんなことをしなくとも、面白い写真はいくらでも撮れるのである。

もしかしたら、素直に撮り続けるスナップ写真家は、時として物が見え過ぎる苦痛を味わうことがあるにせよ、静かで涼しい別世界から、内界と外界を俯瞰することができる魔法使いなのかもしれない。私はそんなふうに思うこともある。

ただ、こんなふうに撮り続けている写真を、私はもうひとりの私の視点から見直して、まとめ始める時期にさしかかっているのかな、と思うことがある。それが、私の場合、河合隼雄さんの言う「中年の危機」と重なったような気がする。まさに人生のターニングポイントである。今までも充分に楽しかったけれど、それを、子どもの頃の小さな思い出のように、懐かしく思い出す時代がやって来るのだと思う。

これからは、もうひとりの私、そして新たな他者の視点が私には必要なのだと思う。私と、私をとりまく世界が、一皮むけて成熟する必要がある。それはしんどい試練ではあるけれど、その先にある喜びを私はかすかに予感することができる。

そこは、今よりもずっと広くて風通しの良い世界である。そこにたどり着いてしまえば小さな世界にはもう戻れない、その苦痛がこの試練の正体なのだと私は思い知る。

ほんの数年前、小さな写真集を作り始めたことで私の住む世界が一変した。それを思い出すとこのことがよく理解できる。でも、少し時間をかけてでも、そこからも今の私は歩み出す必要がある。

繰り返しになるけれど、この晩夏、あるいは初秋の陽射しと風の中で、私は気力と体力を取り戻しながら、それを静かに予感することができる。歳を取る喜びとはこういうことなのだろうか。

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