ターンアラウンド

今年も十月の一か月間、ささやかな個展を開くことができた。この「東京光画館」でお見せした旅の写真を飾ったのだけれど、おかげ様で無事に終了することができた。

開会して十日くらいしてから地元紙の取材があって、一時間半くらい、私は記者の方と写真の前でお話をした。それを済ませて帰宅した夜から私の脚が痛み始めた。数年前と同じ症状である。

翌日になると立っているのもなかなか辛くなってきたので、その次の日に私は以前もお世話になった整形外科の先生の診察を受けた。外科的には何の問題も無いので心労でしょう、とのことだった。それが原因で神経伝達物質の分泌がおかしくなって痛みが再来することがある、とのことで、痛み止めを処方してもらって私は帰宅した。

そのおかげで痛みはだいぶ引いてきて、生活にはまずまず支障が無いほどには回復しているのだけれど、それにしても身体というのは正直なものだと今さらながら私は痛感している。心と身体は結びついている、そんな当たり前のことを私は再び学んだ。

それにしても、取材を受けるのはとても楽しいけれど、これは心のエネルギーを最大限に費やすことでもある。数年おきに長いインタビューを誠実に受ける村上春樹のすごさがこれでよく分かった。そして、写真展の飾りつけとか準備作業といった楽しい課題の他にも、私は今、個人的に難題をいくつか抱えていて、たしかに心労の種は尽きなかった。

それでも、こうして写真展は無事に終了して、取材は素敵な記事になって地元紙に掲載していただいて、私の個人的な心労の種も少しずつではあるけれど軽減される方向で進んでいる。まずはめでたい。プロ野球の日本シリーズが終わると、その年のゴールが見えてきたかな、という気がしてくるものだけれど、今年もまさにそんな感じである。今年の日本シリーズはひさびさに第七戦までもつれたので、あれこれ難題を抱えた今年の私にはぴったりだったな、という気もしている。

そんなわけで、今の私は痛み止めを飲みながら何とかいつもどおりの日常生活を続けている。この痛み止めの薬の副作用のひとつとして、ぽやーっとしてきて気持ちが緩む、という症状がある。これは、引き締めていた気持ちを少し緩めなさい、という薬の正常な作用であるのかもしれない。

それはお酒の酔いとは違って、生活に支障が出るほどのものではない。けれども、そのうえでお酒を飲むと、かえって痛みがぶり返すことがあるので、痛みが完全に収まるまでお酒はお休みである。そもそも、その間はお酒を飲む気になれない。余談ながら、私は大酒飲みではないのだけれど、それでもお酒を休むとお小遣いが浮く。

この、擬似の酩酊状態がきつくなってくると痛みが収まってきたことにもなるので、先生と相談のうえで薬を減らしてもらう。こうして病気は治癒してゆくのだけれど、それでも、この、ささやかな非日常とも言える軽い酩酊状態で考え事をしたり、あれこれ思い出をふり返ったりしてみるのは面白い。気持ちを引き締めてつっぱしっているだけではいけないのだ、という当たり前のことがやっと私にも納得できる。

私が生きる世界、私に見える世界は、すべて私自身の投影である。だから、私が気持ちを緩めれば、この世界が気持ちを緩めてくれる。この世界に生きるひとが気持ちを緩めてくれる。これはとても大切なことだろう。自分が変わらなければ何事も動かないのだ。

今年は試練の年、まさに「中年の危機」を乗り越える年だったと今の私は思うけれど、こうして何とか大切な教訓を得ることができたのだから、辛かったけれどもこれはこれでよかったのかもしれない。早めに辛い目に遭っておいてよかった、と後でふり返ることになるのだろうか。来年は、ささやかではあっても、また新しい一歩を踏み出したいと思う。もちろん、それは私ひとりの力だけでは不可能なことである。

それにしても、今回の取材で思ったのだけれど、私自身が素敵な笑顔で写真に写る、というのは難しいものである。

将棋の元名人で、日本将棋連盟会長の羽生善治さんの最近の笑顔はとても素敵で、もし、「日本スマイル大賞」なんて賞があれば、これをさし上げたいと思うほどなのだけれど、修羅場をくぐったひとはやはり違うのだろうか。私はひたすら憧れるばかりである。

それから、今回のタイトルの「ターンアラウンド」とは「ぐるっと周る」というような意味らしいけれど、これはオーネット・コールマンの名曲のタイトルでもあります。重厚だけれどもポップで乗りが良くて私はとても好きです。ミシェル・ペトルチアーニがソロで演奏した録音と、パット・メセニーがチャーリー・ヘイデン、ジャック・デジョネットとのトリオで演奏している録音が私のお気に入りです。

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