マイルストーンズ

酷暑が続くけれど、立秋を迎えると陽射しも風も雲の形も少し変わって来るのが分かる。暑さに限らず、辛いことはそう長くは続かない。気を取り直して私も生き続ける。

数年前、森山大道さんが朝日賞を受けた時、「歩いて写真を撮ることにしか興味が無い」と語っておられたのを私は憶えている。森山さんらしい発言、と言えると思うけれど、森山さんがそれだけのひとではないことは私もよく知っている。

それでも、森山さんほどたくさん写真を撮っているわけでもない私が言うのは僭越ではあるけれど、「歩いて写真を撮ることにしか興味が無い」と表明しておく方が、この乱世が多少なりとも生きやすくなるのだろうか。私は最近そんな気がしている。

ろくでもない情報が圧倒的に押し寄せるばかりの今の世の中に、無自覚に身をさらしていても疲れ果ててしまうばかりである。そして、こうして少し歳を取ってくると、たくさんの思い出が自分の中に蓄積してくる。これは甘美なことではあるけれど、それが時々うっとうしくなることがある。もちろん、心を麻痺させて働き続けたり、ひきこもったりするわけにもゆかない。誰でもそうなのだろうとは思うけれど、忘れたいことだけをうまく忘れるほど私は器用ではない。

幸いなことに、私には写真という方法が与えられている。これは私にとって、外界と内界を見るための窓である。こんな乱世を生き抜くためには、自分の中に小さくて強固な窓を持つ方が良いのだと思う。だから、私も森山さんみたいに「歩いて写真を撮ることにしか興味が無い」と考えている方が、気持ちよく生きられるような気がする。

それでも、私は無自覚なまま、写真にめぐり会って以来、ずっとそんなふうに生きてきたのだと思う。

写真を始めた少年時代、私は夢中になってフランツ・カフカを読み続けていた。生前のカフカは目のあるひとには認められていたけれど、職業作家ではなかった。そんなふうに写真と関わって生きてゆくのも素敵かもしれない、と当時の私は考えていた。写真の他に勉強してみたいことはあったし、写真がアマチュアリズムだ、ということは、森山さんに教わる前から私には分かっていた。

私は今まで、そんな少年時代の憧れのとおりに生きてきたことになる。だから、まるで腐れ縁の恋人のような存在である写真は、私にとっていつも新鮮であり、まさに少し離れたところからずっと私を見守ってくれた。

私は、今まで何人ものひとから「あなたは一生かかって写真家になるのよ」と言われてきたし、森山さんや北斎やわらさんをはじめとするたくさんのひとが、私をそんなふうに見守って下さっていることもありがたく承知している。

それに応えるかのように、私の写真は少しずつでも成熟しているのだと思う。たとえば、フランスで撮った写真が二十年の時間を経て、素敵な理解者の助力によって本になった。そして、この仕事に関わってくれた理解者も、それによって成長してくれたと私は思っている。それでも、小さな本を作っているばかりではいけない。次のステップに進まなければならない。これは素晴らしいことなのだけれど、成長するというのは本当に辛いことでもある。

嫌味に聞こえるのを承知で言うと、私が写真コンテストの応募者とか、順番をつける展覧会の常連とか、あるいは私家版の小写真集を延々と作り続けるだけのレベルのアマチュアで終わるとしたら、きっと写真は退屈な趣味になってしまって楽なのだろう。そのかわり、誰も本気で私の相手をしてくれなくなることも私にはよく分かる。

けれども、これは写真に限ったことではないのだけれど、ある課題をクリアすると、私の前には必ず巨大な試練が訪れて、次のステップに進むしか無いように私の人生は進んでゆくのである。ひとつの場所に安住できないのだ。楽ができないようになっている。

これは私の意思を越えていることである。だから、私の人生は、いろいろな経験をしたうえで、時間をかけて写真家になるように最初から決まっているのではないか。ずっと以前から私はそんなふうに感じてきた。

辛いことも楽しいことも、私は他人と少し違っているのだと思う。これは生まれつきのことである。そのせいなのか、生きれば生きるほど、私には分からないことが増えてくる。私は情念を持て余しながらも、それでも謙虚であろうとするしかない。こんな生き方を許してくれる、たくさんのひとに感謝するばかりである。

今、そんな里程標のひとつを通過して、私はまた新たな世界に踏み出さなければならない。私の写真が、新たな形で世の中に出てゆくことを望んでいる。そんな気がする。そのために、今は少し待つ時なのだと思う。

もはや、これは私ひとりの力で動くことではない。それは私の周りのひとたちも承知していることだと思う。大きな成長よりも小さな成長の方が困難である、とはこんなことを言うのだろうか。

それを済ませた時、私は再び素敵な助太刀を得て歩んでゆくのだと思っている。だから今は「歩いて写真を撮ることにしか興味が無い」これで良いのかもしれない。その先で待っている大きな喜びが、私にはまだ分からないのだろう。その喜びは、私ひとりだけのものではないはずだ。

そして余談ながら、「里程標」は英語で「マイルストーンズ」である。これはマイルス・デイヴィスの名曲のタイトルでもある。僭越ではあるけれど、マイルスも、いつまでも同じ自分でいることができなかったひとだったのだろうと私は思っている。

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