「おろしや国酔夢譚」から

文春文庫から出ている井上靖の「おろしや国酔夢譚」という長編小説を読み続けている。十八世紀末の江戸時代に、帝政ロシアに流れ着いた大黒屋光太夫を始めとする漂流民の、実話に基づいた物語である。これはそれほど長い長編小説ではないのだけれど、物語が開いてくれる景色が鮮烈なので、私はこれを毎晩少しずつ読んでから眠りにつくことにしている。

厳寒のアリューシャン列島やシベリアの広大な冬景色、その中に点在するイルクーツクやペテルブルグといった異国の都市の景色、そして漂流民の心の景色、彼らを助けるロシアのひとびとの心の景色、そのいずれもが厳しくて美しい。

井上靖の現代ものの小説は今、ほとんどが絶版になっていて新刊では手に入らないけれど、私はそれが大好きである。「あした来る人」とか「流沙」とか「化石」とか「オリーブ地帯」とか、大好きな長編はたくさんある。井上靖は多作な作家なので、私はそのすべてを読み尽くしたわけではないのだけれど、それはひと昔もふた昔も前の、時間が今よりもゆっくり流れていた時代の暖かい息吹を伝えてくれるし、そこから私が教えられることもたくさんある。そして何よりも面白い。

井上靖の歴史小説は、「天平の甍」を読んだくらいで私はまだ手をつけていない。この「おろしや国酔夢譚」は歴史小説と現代小説をつなぐ位置にあるようである。

漂流民として帝政ロシアに流れ着き、様々な事情で少しずつ仲間を失いながらも、大黒屋光太夫は帰国の望みをかなえるために、広大なロシアを横断して首都ペテルブルグの近郊にまでたどり着く。そこで啓蒙専制君主として歴史に名前を残している女帝エカチェリーナ二世に謁見する。この大帝の描写も魅力的だ。美しくも知的で、深い戦略と謎をたたえたどん欲な女性、という印象を与える。私は生きている間にこんな女性に会うことはできるだろうか。もし会えたら私なんかひとたまりもあるまい、と思う。

私は今、そのあたりまで読んだところなのだけれど、ここで大黒屋光太夫は彼女から帰国の許可をもらい、彼らを助けるロシアの学者とともに再びシベリアを横断して、ほんの数人の仲間とともに帰国を果たすことになるようである。十年の時間をかけて彼らは帰国するのだけれど、鎖国政策を取っていた江戸幕府は彼らを江戸で軟禁状態にしてしまうらしい。何を目標にして、何を心の支えにして帰国したのか。物語の最後に大黒屋光太夫はそれを自問することになるみたいだ。

これこそが、強大な運命にもてあそばれる人生なのだろう。私が小笠原に旅した後、やはり江戸時代の末にそこを経てアメリカに渡った漂流民、ジョン万次郎の伝記を読んだことがあった。それを思い出した。

市井の平凡な人間が、ある日突然、数奇な運命にもてあそばれる。幸運に恵まれて、強靭な意志と隠れた才能を開花させることができた人間だけが、その戦いに勝つことができる。彼らは何を思って逆境を生き抜いたのだろう。どんな喜びや苦しみや悲しみがあったのだろう。そして、老いて故国で死を迎えた時、彼らは何を思ったのだろう。

それを想像することは、我々のような平凡な読者にも許されている。私は、井上靖の冷静な文章が伝えてくれる美しい景色とともにそれを思うばかりである。

戦争さえ無ければ、そして拉致とか冤罪といったとんでもない事件や事故に巻きこまれることが無ければ、人生というのはどう転んでも平凡なものではないのか、と私はずっと以前に何かで読んだことがある。たしかにそうかもしれない。苦労なんて言ってみたところで、我々のそれは大黒屋光太夫やジョン万次郎をはじめとする漂流民たちとはまるで比べものにならない。平凡人の苦労なんてどうってこと無いのである。それを教えてくれるのが文学の力なのだろう。

こうして生きていれば私だっていろんな決断を迫られる。けれども、それだってたいしたことは無いのだろう。ならば、好きな道を選べばよい。あえて困難と思われる道を選べばよい。人間は自由に困難に生きるべきである。岡本太郎がそう言っていたのを思い出した。

強靭な意志を持って元気にしぶとく生き続けていれば、すべての願いはかなう。持ちつ持たれつで、願いをかなえるためにひとは助け合う。そして許し合う。ならば、何を恐れる必要があるだろうか。

平凡な日常というものがいったい何なのか、その、妖怪ぬらりひょんのような実態が私にはいまだによく分からない。それでも、静かに激しく生きてゆこう。私はこの年の初めにそう決意しよう。前にも書いたけれど、私には写真という方法が与えられているのだから。それは決して私ひとりのためだけではないのだ。

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