妖精のように跳びまわっていたいのだよ

「この素晴らしき世界」というスタンダードソングがある。これは六十年代の終わりに生まれて、晩年のルイ・アームストロングが歌って世界的なヒットになった、ということである。樹々の緑や紅い薔薇、青空や白雲、そこにかかる虹、そして、この世界に生きる友人たちや恋人たちのいとなみ、赤ん坊の泣き声、つまり、ひとびとの平凡な生活を見て、この世界は何と素晴らしいのだろうと歌う。そんな歌詞だと思う。

あまりにも当たり前に存在するものの素晴らしさや美しさを思い知るには、想像を絶する苦難を経験しなくてはならないのだろうか。ウクライナへの侵略戦争が始まってもう二年も経ってしまうけれど、この歌はそれ以降、世界中で再び盛んに歌われて演奏されるようになった、と私は聞いたことがある。

これは、平凡な日常は尊い、だからそれに感謝して満足せよ、という退屈な教えとは異なることである。たとえば、戦地や強制収容所で生きざるを得ないひと、死刑囚、あるいは死病を宣告されたひとには、ありふれた景色が今までとはまったく異なって見えてくる、という話は私も聞いたことがある。

逆に、死病を覚悟していたひとが、ずっと生きてゆけることを宣告されて、自分をとり巻く世界や思い出が急に色あせてしまう、という話は井上靖の長編小説「化石」に出てくる。これからの生命が保証されることによって、それまでのすべてが化石になってしまう。そして、主人公は喧騒に満ちたこの世界にふたたび帰ってゆくところで、この長い小説は終わる。

そんな苛酷な経験をしなくとも、こうして毎日毎日、これでもか、これでもか、と言わんばかりに一日は繰り返される。もし百年生きるとすれば、三万六千回以上も一日を繰り返したあげく我々は死んでゆく。いったいこれは何なんだ、と私は思う。

たしかに樹々の緑も青空も、ひとびとの温もりも、信じられないほど美しくて素晴らしい。こんな世界に生きる、これ以上の奇跡はあり得ない。

これは、科学による最新の宇宙論が教えてくれることでもある。この宇宙がこのように存在して、そこに我々のような意識を持った生命が暮らすことは、物理学や生物学で検証してみても、ほとんどあり得ないほどの奇跡なのだそうだ。

それでも、我々は、長くとも百年くらいしか生きられないし、生きることは楽よりも苦の方が多い。お釈迦様の言われるとおりである。この世界は奇跡のように素晴らしいとしても、我々ひとりひとりが何百年も生きるに値する世界なのか、それは大いに疑わしい。知的生命として人間は失敗作だ、という意見は正しいと私は思う。まさに「馬鹿は死んでも直らない」のである。どうせ、たいして長くもない有限の生命なのだから、笑顔で精一杯に駆け抜けて生きてやろう。私はそう思っている。不老不死なんて、退屈でおぞましいだけである。

ふと暇になると、「俺は何でこんな世界に生きなければならないのだろう」と致命的なことを考えてしまうので、それが嫌で私はこうして忙しそうに暮らしている。私の生活なんてそれだけのものでしかないと思う。それでも、素直で無技巧なスナップ写真を撮り続けていると、「この素晴らしき世界」の一端をかいま見ることはできる。

幸い私には、残された生涯の時間でやらなければならないことがいくつかある。それを思えば、私の身近にころがっている世間の不条理なんかに負けるわけにはゆかないし、生きることを退屈にしてしまうわけにもゆかない。

もちろん、この世界に写真や文章を残したところで、それは遠からず跡かたも無く消滅してしまう。それでも、理由が分かって生まれてきたひとなんていないのだから、私の仕事や生涯が、同時代のわずかなひとの、何かしらの楽しみにはなるかもしれない。楽しそうに生きていれば、周りのひとも楽しくなる。それだけでも、世の中のためになっている。生きる理由なんてそのくらいで充分ではないか、と私は思う。

読みたい本がある、聴きたい音楽がある、この身を置いてみたい景色がある、出会いたいひとや再会したいひとがいる、作りたい料理や食べたい料理がある。写真以外で、私が生きていたい理由なんてその程度のものでしかない。

今の世の中がこれからどうなってゆくのか、それをなるべく長く見届ける、それだけでもこの世で生き続ける理由になる、と言ったひとがいた。余談ながら、大谷翔平と藤井聡太というふたりの若き天才が、これからどんな人生を歩むのか、私はなるべく長生きして見続けたいと思う。あのふたりなら、悪い方向に進まないことがよく分かるからだ。私に生きる理由をまたひとつ与えてくれたふたりに感謝したい。

話は変わるけれど、「世の中いろいろあるけれど、俺は関係ないね」というのは昔、夏目雅子と堺正章が出ていたドラマ「西遊記」で堺正章が歌っていた挿入歌の歌詞だったと思う。手許に音源が無いので私のうろ憶えだけれど、私はこの歌が大好きである。「失敗ばかりの連続さ、だけど気になどしないね」とか「この世は結構広いよ」とか、とっても楽しい歌詞だったと思う。

そして、私は先日、岩波文庫から出ている大岡信と谷川俊太郎の対論「詩の誕生」を読んだ。七十年代に、日本を代表するふたりの詩人が真剣に語り合った、もの凄い本だと思う。写真のことなんか、この本ではひと言も触れられていないけれど、私はこの本をすべて写真について語ったものとして読んでしまった。難しい本だけれど、私はとっても得をしたと思う。

その中に、谷川俊太郎の「妖精のように跳びまわっていたいのだよ」と題された発言がある。…事大主義ほど嫌いなものはないんだ、道化者になりたい、いつでも軽くいたい、対人関係も軽くありたい、軽薄に見えることは承知の上で、ピョンピョン跳んでいたいのだよ、詩人というもののおれのイメージのなかには、そういう妖精的なものがある・・・

この発言には、私の想像を越えた厚みがあることくらい私にも分かる。そして、この発言の奥には、深い絶望や孤独があるのかもしれない。

それでも、私も、奇跡のように美しくて暖かいこの浮世を、あるいは、怠惰で不まじめ極まりないこの憂き世を、ピョンピョン妖精のように跳びまわっていたい。それが本当に可能なのかどうか、それさえも私には分からないけれど、これを目指す以外に、この世で私にふさわしい生き方は無いような気さえしているのだ。自由でなければ、私がこの世に生きる理由なんて何も無い。

そして、我々人間が自由に生きなければ、無限に存在するらしいパラレルワールドのひとつでしかないこの宇宙には、何の価値も無いような気がする。もしかしたら、この宇宙なんて、その程度のものでしかないのかもしれない。そう考えると愉快である。

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